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 月曜日の朝は猫になる時間がなかった。迷い犬が気になって何度も夜中に起きたおかげで寝坊したからだ。五回目の変身を無事経過したから俺はもういつでもモフスキンを着れるのに、サラリーマンはつらい。  だが会社が終われば俺は猫、猫の自由が待っている。そう思うと満員電車も気にならなかった。とはいえ月曜はただでさえ電車が混んでいるのに、ポイント故障だのお客様同士のトラブルだのでまた遅れ、会社についたのはぎりぎりの時間だった。  俺はコーヒーを求めて給湯室に駆けこみ、とたんにぎょっとして立ちどまった。 「おはようございます」  西野がコーヒーマシンの隣にぬっと立っている。カウンターには紙コップがふたつ。 「コーヒー、入れておきましたよ」 「あ、ありがとう……」 「志賀さん?」 「西野―――」  本当に何もつけていないのか? この匂い――俺はすんでのところで口に出しそうになるのをあわててこらえた。いい匂いというか――いい匂いどころじゃない。強烈すぎる。西野はまったく気づいていないのか?  自分の匂いは気づかないものだという。まずいまずい、これを本人にいっちゃいけない。セクハラだかパワハラだか、とにかくまずいことになる。 「いや。おはよう」  何でもない顔をしてコーヒーカップを受け取ろうとしたが、手が震えた。胸がどくどくと動悸を打っているし、顔がほてって耳まで熱い。なんだこれ? 俺、いったいどうしたんだ? 病気か? 心臓がおかしいのか? 「今日は遅かったですね」  西野はそんな俺に気づいているのかいないのか、平然とした顔でいった。 「昨日よく眠れなくてさ。夜中に何度か起きてたから……」 「顔、赤くありません? 調子悪いですか?」  西野は俺を見下ろし、紙コップを持っていない方の手をのばしてくる。俺はびくっとして後ずさった。 「あ……そうかも。ほら今、花粉が飛んでいたりするし」 「志賀さんって花粉症ですか?」 「わからんが、突然発症するらしいじゃないか」  冗談めかしてそういったが、動悸はやまないし下半身に熱が集まってくる。おいおい、今は朝だぞ? ここは会社だぞ? 俺はなにかヤバい病気なのか? 今朝の満員電車で何かうつったとか?  そんなことを思いながら俺は逃げるように給湯室を離れた。西野の匂いがわからなくなったとたんに動悸がやんで、顔のほてりもおさまった。  俺は混乱したまま仕事をはじめた。困ったことにその日はずっと朝のこれの繰り返しだった。西野が近くに来たとたんに動悸がはじまり、息が苦しくなり、顔がほてって熱くなる。西野がいなくなるとすっと止まる。  西野からはとてつもなく強烈な匂いがした。先週はいい匂いと感じたもので、実際いい匂いなのだが――「いい」なんてレベルを超えて激しすぎるのだ。俺の体のなかをかきまわして、ぐちゃぐちゃにするような、とでもいうか。  西野が近づくだけで頭もぽわっとしてくるし、一番困るのは下半身だった。俺はあまり性欲がないほうで、女の子の谷間をみるとムラムラするなんていう話にはあまりぴんとこなかったのだが、西野が近づくとその――ムラムラするのである。  さらに困ったことにそう感じているのは俺だけらしい。和田さんをはじめ他のチームの面々は西野と話しても特に変わったことがない。午後に至って俺は結論せざるを得なかった。変なのは西野ではなく俺の方だ。 「志賀さん?」 「体調が悪いみたいだ。定時であがる。お先」  終業時間と同時に俺は鞄を持って立ち上がった。トイレに入ろうとした時うしろから西野が追ってきた。ふりむかなくても匂いでわかる。 「やっぱり。朝から様子がおかしいと思っていたんです」  西野、おまえいいやつすぎるぞ。俺は恨めしく思った。こんなことをいわれてはふりむかないわけにはいかない。なんとか平静な顔で笑おうとする。 「悪いな。西野も早く帰れよ」 「大丈夫なんですか?」  大丈夫じゃない、おまえがそこにいると!  もちろんそんなことはいえなかった。だが昼間はできるだけ西野に近づくのを避け、弁当も断ったから、体調が悪いという言葉には納得してくれたようだ。 「花粉症かストレスかわからんが、春は体調を崩しやすいらしい。とにかく帰るよ」 「気をつけてください」  俺は西野の鼻先でトイレの扉をしめると個室に駆けこんだ。あいつが真後ろで話しているあいだ、俺のズボンは困ったことになっていたのである。  やはりこれはストレスだろうか。家に帰りながら俺は考えた。西野から離れたとたん動悸もおさまるということはあいつがストレス原因なのか? しかしどうして急にこんなことが起きるんだ。チームに不安材料がないとはいわないが、西野はいちばん問題のない部下なのだ。それとも西野と関係ない、長年ひそかに溜まっていたストレスが花粉だか何かのせいで急に出てきたとか? 俺は花粉症にはとんと縁がなかったのだが……。  そんなことを考えながら家に帰ったのだが、玄関を開けたときに俺が出した結論はひとつだった。  やっぱりここは猫だろう。人間のストレスなんぞ、猫になれば無関係だ!  というわけで、ありあわせの晩飯を食ってシャワーを浴びると、俺は庭のテントにモフスキンの繭をもちこんだ。あたりは暗くなっていたが、今日も公園まで足をのばすつもりだった。近道もわかっているし、天気も悪くない。 「にょににゃぁにゃー(あーさいこう!)」  ひょっとして動物の姿になると、ふだんは意識していない性格が前面にあらわれるのかもしれない。猫になった俺はすこし臆病だ。物陰で動く小さなものにいちいちピクピク反応する。でも人間でいるときは思いもつかないことをしようとする――塀の上を駆けて、飛び降りながら宙返りし、全力疾走で木の根のあいだをすりぬける。  一日の疲れもなんのその、爽快感でいっぱいになって公園までたどりついた時だった。俺は前方に匂いのカタマリを感知した。  いい匂いとか、そんな風に思う暇もなかった。近寄らざるをえない匂いだったからだ。猫になった俺からはやはり人間の知性というか警戒心は薄れてしまっていたのだろうか。俺はまっすぐ匂いの方へ歩いていった。  するとどういうわけかそこに西野がいた。  どういうわけか猫になった俺は、西野を前にしても昼間のように動悸に悩まされなかった。でも西野の匂いが圧倒的なのに変わりはなかった。西野はじっと俺をみた。鞄片手にスーツのままだから、今帰りなのだろう。妙にしょんぼりした顔をしている。 「にょににゃぁにゃぁにょに(おまえのいえ)にゃぁにゃわんにょににゃ(このちかく)にゃにょにに(だっけ?)ゃぁ」  俺は思わずそういったが、口から出たのはにゃあにゃあという声だけだ。西野がしゃがみ、手を伸ばしてくる。俺はびくっとしたが、猫になった俺にふりかかる西野の匂いは人間でいた時の比ではなかった。全身が震えるというか、よだれが出そうというか、跳びかかりたいような跳びかかられたいような、理性が吹っ飛ぶ五秒前といった感じなのである。西野の指が俺の頭にそっと触れた。毛皮をかきわけるようにして耳のあいだを撫でられる。気持ちよさにちょっとだけ欲望が落ちついて、またぱっと燃え上がる。  俺はゴロゴロと喉を鳴らし、西野の膝に体をすりつけた。ああ、もうだめだ。人間の理性なんてくそくらえだ。好きにして。撫でて触って。今の俺は猫だし、おまえの匂い最高だし、なんかもうブルブルするし――  俺はうっとりと眼をつぶった。西野が低くつぶやいた。 「可愛いなあ。これ、好きかな」  ヒゲが揺れた。  ん? なんだこれ? 西野の匂いとはちがうこれ――すごく美味しそうな……  俺は差し出された固いものを舐めた。頭の中がふわぁっとして、ぐぁんとした。美味しい。舌にざらざらする感触がある。噛んでみる。また頭の中がぐにゃんとした。  ん……にゃんか俺……酔っぱりゃったみたいにゃ……  ふわぁっとした俺の体を西野の手が撫でている。腕のあいだに抱き上げられる。俺はうっとりした気分で眼を閉じた。  何が起きたのかはその後まもなくわかった。西野はあろうことか、最終兵器「またたび」を持ち出してきたのだ。  気がつくと俺は知らない部屋にいて西野の膝に乗っていた。やつの指は俺の背中や頭を撫でまわし、それだけでなく時々顔を俺の毛皮に押しつけてくる。すーっと息が聞こえて、なんだか俺は吸われているようだ。  吸うな! ひとを吸うな! いや猫を吸うな西野! なにやってんだ――とすみっこに追いやられた俺の理性が叫んだ。ところが猫の俺はとろんとしたまま、いいじゃないか――と呑気に答えている。  西野は単に猫を可愛がってるんだ。俺だって気持ちいいんだし、ウインウインだろ?  何いってんだ。俺はまたたびで拉致されたんだぞ!  拉致って大袈裟な。逃げればいいだろう。猫なんだから。  たしかにそうだった。俺は猫なのだ。  俺は残りの理性をかきあつめた。顔をあげ、体をひねり、くねらせる。急に俺が動いたせいか西野はびくっと膝をずらし、その隙に俺は床に飛び降りた。 「あ……」  背後で西野ががっかりしたような声をあげた。俺はドアの隙間から廊下に飛び出す。ここは西野のマンションなんだろうか。玄関ドアへ到達したが、案の定鍵がかかっている。どうしたらいいのかと不安にかられたとき、西野が俺のうしろから鍵をあけた。 「帰ります?」 「にゃわんにょににゃぁ(とうぜん)」  俺は反射的に返事をして外に飛び出した。マンションの外廊下をびゅんと駆けて外の道路に出る。きょろきょろと見回すと自分がどこにいるのかはすぐにわかった。西野のマンションは公園の端に接しているのだ。  家に帰るとくたくただったが、変身を解除して布団に入ってからもまだ体がむずむずしていた――いや、どちらかといえばムラムラというべきか。なんてこった、俺は会社でもトイレで――  その時ふと思い出した。猫の体であいつのマンションを出るとき、西野はどうして「帰ります?」なんていったんだろう? 猫に敬語?  猫に敬語って猫に小判みたいなものだろう。だいたいあの口調、会社で西野が俺に話しかけるときにそっくりだ。あいつは猫に対しても敬語で話すのか?  西野の声を思い出し、あいつの顔を想像するとまたムラムラしてきた。昼間みたいに西野の匂いを嗅いだわけでもないのに。いや、そもそも西野の匂いにこうなるのがおかしい。俺はやっぱり変だ。異常だ。どうかしてる。  俺は混乱したまま眠りについた。
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