8.

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「鍵をかけずに出るなんて、不用心ですよ」  俺の家のドアを開けながら西野がいう。 「にゃぁにゃーにょ(うるさい)」  俺は西野の腕のあいだから玄関に飛び降りる。そのまま茶の間へ走りこんだあとで西野がついてこないのに気づいた。廊下に戻ると西野はたたきの上で困った顔つきだった。 「にゃぁにゃぁ(あがれよ)」  猫のまま喋ってもにゃあにゃあとしかいえないのだが、西野はなんとなく察したらしい。 「いいんですか? お邪魔します」  自分のマンションでは俺にあんなことやこんなことをしておいて「いいんですか」もないもんだ。しかし猫に変身すると何をいおうが「にゃあ」になってしまうので、俺は黙っていた。  結局あのあと俺はさんざん西野にいいようにされ、疲れて眠って気がついたら朝になっていた。今日が土曜日でよかった。昨日は猫に変身したまま玄関を飛び出して戸締りもしていない。シャワーを借りて体を洗い、モフスキンを着て帰るというと、西野は「送ります」といったのだ。 「いいって」 「猫になって帰るんですよね? もし家に泥棒とか入ってたらどうするんですか。変身を解除しても全裸ですよ?」 「大丈夫だって」 「それに志賀さん、まだ発情期終わってないでしょ?」  西野は洗面所の敷居にもたれている。俺は腰に巻いたバスタオルを慌てておさえる。 「そんなことない」 「ほんとに? 志賀さんすごく……色っぽいですよ……僕のつけた痕がたくさんあるし……」  西野の眼があやしく光る。ああもう、やめろって! たしかにこいつの匂いは俺の全身にびんびん反応しているから気を抜くとまずいことになるのだ。  俺は西野に背中を向けてモフスキンに足を突っこみ、変身をすばやく完了させた。猫になればトロい人間の足元をすり抜けるのは簡単なはず。なのにマンションを出たとたん急に疲労を感じたのは昨夜の行為のせいなのか。 「抱っこしていきましょうか?」  西野はストライプのシャツに綿パンというスタイルだった。スーツ姿しかみたことがなかったので新鮮だ。耳のあいだを撫でられると気持ちよすぎた。まったく猫はダメだ……! 俺は誘惑に屈した。 「にょににゃーん( たのむ )」  というわけで西野は俺の家にいるのだった。一晩鍵をあけっぱなしでも異常はなく、家はしずまりかえっている。いつものことだ。二階建て、今風にいえば4LDK。俺一人で住むには広すぎる。 「僕をこの家で飼いません?」  西野は茶の間をしげしげと見渡してそんなことをいった。 「にょににゃぁにゅ(あんなりっぱな)にょににゃんにょに(マンションにすんで)ょににゃーにょ(るくせに)ににゃんにょにょ(なにいってる)」 「僕を飼ってたらつぎの発情がきても大丈夫ですよ? 何日か大変でしょう?」 「ににゃごしゃー(だまれ!)」  抗議したのに西野はまたひょいと俺の体を抱き上げた。そのまま茶の間の襖をあけて縁側に出る。 「いい庭ですね」 「にゃぁにゃぁにょに…(手入れが大変なんだ)」  あーもう、俺は何をにゃあにゃあいってるんだ。 「にゃー(もう!)!」  もどかしさに俺はつい変身を解除した。素っ裸になるということを忘れていた。 「西野! お姫様抱っこはやめろ! おろせ!」 「え、もったいない」 「服を着たいんだよ。もったいないって何―――む!」  西野は俺を抱き上げたままキスをしかけてくる。まずいまずい。せっかくあのムラムラが少しおさまったのに、こんなことをされるとまた…… 「ね、まだ足りてないですよね……?」 「いいから……おろせって……」  おろされたのはいいがそのあとがまずかった。西野は服を着たまま俺の上に覆いかぶさってくる。 「ああ……こんなにキスマークつけて……」 「つけたのはおまえだろ? 触るな――ぅ」 「志賀さん、ほんと美味しそうです……」 「喰うなよ馬鹿……」 「それ反語ですよね? 僕も服を脱いでいいですか?」 「俺に聞くな変態! ダメ…だって…」 「じゃあ脱ぎます」 「ぁ――あのな、ひとの話を……」 「そんな顔でいっても無駄ですよ」  軒のむこうから斜めに日の光がさしこんでいた。東南を向いた縁側はこの家でいちばん長い時間太陽があたるのだ。庭と手入れをさぼっている植木と塀のおかげで隣の家からは見えないが、こんなところで裸でやってるなんて……なんてありがちなエロビデオシチュだよ…… 「この発情とやらはいつまで続くんだ?」  しまいに床が汚れたことを気にかける余裕もなくなり、西野のシャツを適当にひっかけたままぐったりと寝そべった俺のひとりごとに、西野は「すこしおさまりましたよね」と呑気な声で返す。 「匂い、かなり弱くなりましたよ。遅くとも月曜には終わってますよ」 「月曜? 今日はまだ土曜だぞ」 「僕は明日も暇ですから、喜んでつきあいます」 「俺はもう去勢されたい……」 「ええ! そんなのダメです!」 「モフスキン……こんな副作用があるなんて……欠陥製品じゃないか……椿のやつ……」 「返品しますか?」  西野の声がぽつんと床を切り取るように描かれた四角い光の上に落ちた。顔を向けると西野は上半身裸で体育座りをしている。腹筋が割れているのがねたましい。 「アルファやオメガ体質が顕現するなんてめったにないことらしいです。僕は一度も他のアルファに会ったことがないし、ましてオメガなんて」  俺はなんとなく西野の背中に手をあてた。 「なんでおまえ犬にしたの?」  西野の眼が一瞬丸くなった。思ってもみないことを聞かれたといったような笑顔が浮かぶ。 「僕、ストーカー気質だっていいませんでした? 当然犬ですよね。鼻で好きな人を追えるし」 「犬だと猫みたいに外で好きに暴れられないじゃないか。保健所に連れていかれたらどうするんだ」 「猫だって危ないですよ。説明書に書いてあるでしょう。志賀さん、暴れたくてモフスキン買ったんですか?」 「ちがうけど――」  モフスキンを買った理由か。俺は急に恥ずかしくなった。変な話を振ってしまった。 「猫の方が身軽だ」 「僕は嬉しいです。志賀さんに心配してもらえて」 「喜ぶな」 「犬だから嬉しいんです」  俺たちはどちらからともなく黙った。木が鳴る音が大きく響いた。西野のマンションは静かだったな、と俺はぼんやり思った。年月が経った木造の家はあちこちで木がきしむ。昔はときどき俺の他にもこの家に人がいるのではないかと錯覚することがあった。そんな感覚もほとんど忘れて何年も経つ。 「この縁側はいいですね」と西野がいった。 「ゆっくり考え事をするのに向いています」 「そうだな。子供のころ、じいちゃんがここで碁を打ってた」 「クーリングオフ、まだ考えていますか?」  俺はしばらく答えなかった。思い出していたのだった。猫の視線でこの家をみたときにどう感じたか、どれだけわくわくしたか……。 「いや。やめとく」  西野はきょとんとした表情になった。バシバシまばたきをしながらいう。 「僕に襲われたのに?」 「襲った自覚はあるのか」 「まあそりゃ……そうですよ。モフスキンのおかげで志賀さんがオメガだってわからなければ僕は……いいませんでした」 「そうか」  そういえば俺は西野に「好きです」といわれたのだった。何かまともに返したっけ? えっと……。  昨夜の記憶は部分的にあやふやだった。また混乱しそうになって俺はその問題を心の棚に上げる。おそらく俺はまだ事態を完全に理解できていないのだが、人生に重要なのは先延ばしだ。そのうちどうにかなるだろう。 「返品はやめとくよ。夢が叶いそうだから」  俺の答えに西野は真顔で問い返した。「夢って?」  まともに話すのは照れくさかった。馬鹿馬鹿しい夢だからだ。でもまあいいか、と俺は思った。素っ裸で縁側にいて、昨夜からセックスしている男が横にいて、いまさらなんだというのだ。 「縁側で猫になって……誰かに頭を撫でられるんだ。笑えるだろ」  西野は笑わなかった。のびてきた手が俺の髪を撫でた。 「撫で役に立候補します」 「飽きるよ」 「飽きませんよ。それ以上のことだってします」 「そこは考え直せ」 「いやです」  庭木の葉っぱが風に揺れ、床を切り取る光のかたちは知らないうちに動いていた。家のどこかでまた木の鳴る音がする。
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