第一章 雨の日の出会い

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 でも、今のかすみは、恋人だった男の容姿を忘れかけていた。心にあるのは、ほんの少しだけ会話を交わした、青い色鉛筆が似合う男性。  自分の心にある面影を(うつ)しとるように、かすみは無心で鉛筆を走らせた。モノクロの笑顔がスケッチブックに(あらわ)れた。  (もっと、優しそうだった)  かすみは次の紙に、男性の笑顔を思い出しながら描いていった。何枚も……気に入るまで彼女は描き続けた。  ようやく気に入った一枚が描かれた時、太陽は天頂に近く、外からは、まだ聞こえるセミの鳴き声がやかましかった。  動こうとすると、身体が(きし)むようだった。時計を見てかすみは驚いた。思ったよりも長い時間、鉛筆を走らせていた。思いきり身体を伸ばした。強張(こわば)った身体に血が巡るように思えて気持ち良かった。  上手く描けた一枚をスケッチブックから外した。乾かした色鉛筆で(いろど)りたかった。  モノクロでも、彼の優しい雰囲気が描けていて、かすみは満足したけれど、青で彩れば、もっと面影に近くなる。  (これじゃ、憧れのアイドルね)  かすみは芸能人に興味はなかった。会社の雑談に応じられる程度の知識で充分。  本棚には、好きな画家たちの画集が並び、壁には、お気に入りのイラストレーターの原画が飾られている。一生懸命、お金を貯めて買ったリトグラフだ。  ずっと見ていなかった。暗い気持ちで見たくなかった。でも、今日は見ると心が浮き立った。  名前も知らない画用紙の中の笑顔に、かすみは感謝していた。乾いた数日を忘れさせてくれて……  スケッチには、青に染まる男性の姿が上手く描かれた。淡い青色の背景が、雨の静けさを表しているようで、かすみは満足した。  いつも見ていたくて、リビングの壁に()った。自分の絵を飾るのは初めてだったけれど、あの男性を忘れたくなかった。静かな微笑みが、記憶の男性と重なった。
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