序章 朝、降る雨

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 その日は朝から雨が降っていた。  かすみは溜息をつきながらコーヒーを落として、カップに入れて飲み始めた。少しミルクを足して飲むのが、かすみの習慣。  必ず小さなカップに、同じカフェ・オ・レを入れて、写真の前に置いている。  はにかむような笑みの男性。傘をかすみに差しだしてきた時、濡れるままベンチに座っていた時……彼の記憶は雨とともにある。  本当に雨のような男性(ひと)だった。強く降る雨ではなく、柔らかく優しく降り注ぐ雨。乾いていたかすみの心を静かに(うるお)す雨のような人……  彼女の頬にも雨のように涙が流れた。  どんな人かもよく知らないうちに、彼女は彼に抱かれた。  かすみは、当たり前のように彼を受け入れていた。たった一度で忘れられない夜……  もっと、たくさん話したかった。他の人たちのように平凡な毎日を送りたかった。  でも、それを不可能と知りながら、かすみは彼を愛した。短い時間でも構わないと、彼の傍にいた。そして、やっぱり、ほんの短い時間しかいられなかった。  彼は、かすみに永遠の愛と忘れ形見を残した……  ***  「お母さん、おはよう。今日、雨なんだね……あ、お母さん……」  声が小さくなる息子に、かすみは涙を(ぬぐ)って微笑んだ。  「おはよう、紘基(ひろき)。貴方もお父さんに挨拶してね」  言って、かすみは写真の前から動いた。  「はい」  素直に頷いて、紘基は棚に飾られている、彼を大人にしたかのような写真に向かって声を掛けた。  「お父さん、おはよう。今日は雨だよ。お父さんとお母さんが大好きな天気だよ」  かすみは、紘基の言葉に写真を見やった。  彼女は、雨がそれほど好きなわけではない。でも、二人の思い出には雨がいつも降っていた。  初めて会った日も……
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