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でも、かすみは、これ以上探しても見つかる気がしなかった。他人の家の敷地には入れない。
週明けに新しく買おうと思った。社員価格で購入できる。そして、失くしたのは一本だけだから。
気を取り直すと、立ちあがって傘を差そうとした。今さらという気持ちもあったけれど、これ以上濡れると、せっかくの週末が風邪になりそうだ。
少し俯き気味で傘を差そうとすると、急に雨に当たらなくなった。かすみが驚いて顔を上げると、男性が傘を持って立っていた。
「え? あの……」
初めて見る男性だ。なぜ、自分に傘を差しだしているのか全然分からない。とまどいと警戒が、かすみの声に表れた。
でも、その男性-少し年上に見える人-は、穏やかな表情に笑みを浮かべて、かすみを見た。そして、左手を差しだしてきた。その手には……
「あ、その鉛筆」
「少し見つけにくい場所にありましたよ。貴女のですよね」
目の前の色鉛筆をかすみは思わず受け取っていた。
少し淡い青色の鉛筆が、暮れゆく雨の夕方の空気の色のように見えた。今の雨に色を付けるなら、間違いなくこの色だろう。
「あ、そうです。ありがとうございます。わざわざ……」
「いいんです。良かった。それじゃ」
「あ、お礼を……」
「気にしないでください。当たり前のことですから」
男性はそのまま立ち去った。彼の穏やかな微笑みが、かすみの心に残った。
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