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1:両親の結婚記念日
「お父様とお母様は今年で結婚何年目ですか?」
あの『川越事件』が発生した2019年3月16日、毎朝新聞の記者・江川紹は両親と会食していた。
新聞記者は高収入で女にモテるが、尋常ではないほど忙しい。ブラック企業と違って長時間労働の分だけ残業代を貰えるから良いが、プライベートは犠牲にしている。入社6年目の紹は会社のローテーションの関係で平日休みが基本であり、土曜日に休みを貰えることは少ない。土日は混むから平日休みの方が遊び易いが、未だ働いている父とは予定が合わない。
久々に両親と会って話す機会だった。
長男の紹の奢りで一家は六本木の高級レストランに足を運んでいた。ワインやキャビアに舌鼓を打ち、普段は着ないイヴサンローランのダークスーツに紹は身を包んでいる。テーブルを挟んで向かい合わせに座っている両親の服装も値段が張る。
「今年で丁度30年目だ」
父が言うと、紹は心から喜んで、
「素晴らしいですね」
勤め先でこんな喋り方はしないが、紹にとってはこういう喋り方の方が楽だった。紹は元々育ちが良い。父は大手総合商社の役員。親子共々、慶応大学を卒業しており、祖父も慶応大学を出ていた。一家は大学に近い港区に住んでいる。比較的裕福な家庭だが、こうした店に毎日通えるわけではない。彼らにとっても御馳走ではある。
「お前の年には俺は結婚していたんだ。お前も考えておけ」
「はい……」
「お付き合いしている方はいらっしゃるの?」
母が微笑ましく訊いてくる。
「います。しかしあまり長く続かなくて」
「この前の早苗さんって方は?」
「お母様、それはもう2年前の話ですよ」
「あらっ、そんなに前の話でした?」
「しかも、早苗さんの後に5人ぐらいお付き合いしています」
母は女にモテる息子が嬉しくて、
「紹ちゃんも悪い男の子ね」
「いいえ」
紹は苦笑いした。すると父は表情も口調も穏やかだが、苦言を呈す。
「紹、あまり多くの女性とお付き合いしても良くないぞ」
「と言いますと?」
「多くの女性と付き合っても恋愛は分からなくなるものだ。むしろ一人の女性と長く付き合う方が恋愛の何たるかが分かるようになる」
夫が分かったように語ると、少し不満げになった妻は、
「そう仰るなら、もう少し早く帰って来て欲しいと云う私の気持ちも分かって欲しいですね」
夫は気まずそうにワインを飲んだ。
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