Aくん(仮)

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Aくん(仮)

 もう何十年も前、私が教師になったばかりの年、赴任先の校長の方針で、校内に投書箱が設置されることになった。  設置の目的は、生徒達のちょっとした要望や困り事などを耳に入れたいというものだったが、下駄箱付近の賑わう場所に箱を置いたにもかかわらず、投書は月に二、三通程度。内容も『ここに何を書き込んで入れればいいんですか』とか、『この箱の目的は何ですか』といった、目論見とはかけ離れた物だけだった。  箱を撤収するべきかどうか、校長と教師陣で色々話し合い、匿名性を強くすればよいのではという結論を出し、それを校内に伝達した。  投書する本人はむろん、特定の生徒や教師のことを書き込む際も、相手の名前も匿名で構わない。  当時はネットなどまったく一般的ではなく、個人情報は、扱いが杜撰でもそうそう人に漏れることはなかったが、学校という狭い空間内だ。迂闊に実名を出せば書いた人間が特定されてしまう恐れもある。  それが、誰かが喧嘩をしていたとか物を壊したという内容だった場合、投書をしたのはその場に居合わせた者だと断定され、後々報復をされる恐れもある。だからみんな、何か問題を抱えていても投書をせずにいるのかもしれない。  どちらも匿名。それならば何か事件を目撃したとしても、よほど詳細に内容を書き込まない限り、書いた人物の特定はまずされない。  徹底した匿名制に加え、箱の位置を保健室前に移動し、投書の現場自体を人目に触れにくいようにした。  この変化が受け入れられたらしく、以前は開くのも虚しかった投書箱には、週単位で百通近い投書がされるようになった。  初期の投書は、大半が『給食を毎食ステーキにしてほしい』などといった、それはさすがに聞き入れられないというわがまま内容だったが、やがて物珍しさの波が収まると、投書の数自体は減ったが、内容は具体的な訴えがほとんどになった。 『部活でいじめに近いしごきがあるから、もっと現場を監督してほしい』 『みんなあまり近づかない場所だから知られてないが、そこの器具が壊れている。危険だから修理か撤去をしてほしい』
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