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02
まるで蟻に角砂糖を持たせているようだ。
いや、蟻にたとえるのはさすがに失礼か。とにかく堂島リゼにそのダンボール箱は大きすぎるように見えて、うっかり階段を踏み外してしまわないかがひたすらに気になった。自分もおなじ箱をもうひとつ抱えていたが、こちらはずいぶんちいさく見えたことだろう。
気になってなんども振り返りたくなるが、あまり過剰に気にかけるのも申し訳ない気がした。本人が手伝いを買って出てくれ、それに対して「頼む」と言ってしまった以上、やっぱりやめてくれなんて言えるはずがない。ましてや、「自分だって男だから」と言い切った彼に。
桃がぎっしり詰まった箱はおまけに重い。はらはらしながらもキッチンまで無事運びこむと、いろんな意味でほっとした。
「店長。この桃、どんなお菓子になるんですか」
堂島は無邪気に質問してくる。それについては、まだ考えている途中だ。あれもいい、これもいい、つくりたいものだらけで胸が躍る。たとえば。
「お前なら、タルトとショートケーキ、どっちを食いたい」
「んー、どっちかって言われたら、どっちも」
そんな答えが返ってくるだろうと想定していた。なぜか嬉しくなって、両方つくって食べさせてやるしかないような気がした。それに、休憩に行く直前だった彼を手伝わせてしまったのだ。それくらいはしてやらなければならない気がする。ありがとな。笑ったとたん、無意識にその頭を撫でていた。ちいさい。もしも弟がいたら、こんな感じなのだろうか。
彼がはじめてサロン・ド・テ・プランタンをおとずれた日、「ここに住みたい」と言って店内の話題になった。あのとき彼は高校生だったが、進学にともなってここで働いてくれることになるなんて思いもしなかった。
当時は『座敷童子』だなんて呼んで微笑ましく思っていた。かわいいかわいいとだれもが口にする。ほんとうに座敷童子がいてくれたら、売上も伸びるかもしれないですねえ。半分笑い話、半分は店に対する皮肉で朝宮樹は言っていた。そして堂島リゼはここに帰ってきた。
ふしぎなもんだな、とキッチンでホイップクリームをひたすら泡だてながら思う。しかしなんとなく気分がのらないのは、今朝ブレンドしたばかりの紅茶がまたいまいちだったせいである。もしかすると、ブレンドなんて言い方はおこがましいかもしれない。実際はポットのなかで香りと香りを大戦争させてしまっていて、ブレンドなんて調和のとれたものではない。それを無責任にスタッフルームに置いてきた。毎回なんやかんや言い訳を書いた紙を添えて、それとなくスタッフたちに処理させている。
今日は一段と納得のいかない仕上がりだ。これまで一度も納得したことなどないのだが。だから今夜は、泊まりこみでブレンドティーの研究をしようと思っていた。自宅でするよりは、よっぽど材料も参考資料もそろっている。
昼の便でとどいたダンボール箱をみずから受け取って、サインをする。スタッフに字が汚いとよく言われる。へいへいと受け流してはいるが、もしかしたらこういったささいな面から、あらゆることに差がついているのかもしれないと思う。
ダンボール箱にはニルギリの茶葉が入っている。これだけで五年は楽しめるだろうという量で、今夜はこれをベースにして、自分のオリジナルブレンドをためす予定だ。なんとしても成功させたい。させたいと思う。願う。
すると来客のピークを過ぎたティーミュージアムの中心で、堂島がぼんやり立っているのを見かけた。ぽつり、という表現がよく似合うようで、その狭い店内にいてさえその身体はちいさく見えた。
しかし、声ははっきり聞こえた。
「俺、ここに住みたい」
なぜか聞いてしまってはいけない台詞をうっかり聞いてしまった気分になる。もし自分が彼の立場だったら、ひどくいたたまれない気分になってしまうだろう。それでも聞き流すことができなくて、つい声をかけてしまった。
「住んでみるか」
まだそんなこと言ってんのか、と茶化してみるものの、自分の店づくりによってそう思ってくれていることは素直に嬉しかった。実際に住まわせてやれないことが申し訳ないとすら思う。
しかし、泊まらせてやることくらいならできる。だからつい誘ってしまったのだ。
「俺はかなりの頻度でここに泊まりこんでる。今日も、このニルギリ茶葉をベースにあたらしい紅茶をつくれないか、いろいろ実験するつもりだ。お前さえよければ、付き合ってくれるか」
すぐさま「もちろんです」とはずんだ声が返ってくる。ただし、寝るならこのティーミュージアムがいい。そんな条件つきだ。
それじゃあ、風呂をすませたらまた二十一時にここで。夕食はどうする? なんて訊いてみれば、店長の料理が食べたいなんて言われてしまう。趣味が料理で特技が料理、自分のことをつまらない男だと評価していたが、こんなふうに頼られてしまうと嬉しいものである。
あれもつくってこれも用意して、なんてしているとびっくりされそうだし、なにより浮かれているのがばれてしまう。カレーライスとサラダくらいにしておこう。
そう、今夜は堂島とふたりきりで寝泊まりするのである。これまで年下の面倒なんてみたこともなかったくせに、いきなりそんなことをしてだいじょうぶだろうかという不安もあったが、それよりも楽しみだという気持ちが勝った。それこそ、はじめて年下の面倒をみることにこころを躍らせているのだろう。そんなふうに考えていた。
もしも弟がいたら、いつだってこんな気持ちで過ごしていたのだろうか。弟がいなかった自分には、それがわかるはずもなかった。
結局、その日のうちに納得のいくブレンドは完成しなかった。
代わりに、自分なりの成功につながるヒントは得た。それでも自分の理想とするかたちとは違っていて、結局最終的に目標としているところは兄なのだと改めて認識する結果となり、ひどく落ちこんだ。
「寝るか」
こんな気分を、年下の堂島に気取られてはならない。ひどく情けない感情を知られてはならない。いつもなら酒をすこし喉に流すところだったが、未成年の前でそんなことができるはずもない。ひとまず眠ってしまおう。
スタッフルームの隅に、ひっそりと隠すようにしまっていたシュラフをふたつ取り出してきて、ティーミュージアムの中央に置いた。なんどもこの店に寝泊まりしてきたなかで、ここをつかって眠るのは自分もはじめてだ。
疲弊しきった自分の横で、堂島はテンションが上がっているようだ。紅茶に囲まれて眠れることが嬉しいらしい。子どものようにはしゃぐ声はかわいくて、そしてそれは店や自分に対する評価のようで、やはり嬉しかった。
「ありがとうございます。ついに夢が叶いました」
そうか、夢が叶ったのか。よかった。夢を叶えてやれたのか。よかった。それはむしろ、エゴが満たされる感覚に近かった。堂島リゼの願いを叶えたのはほかでもない自分で、それが誇らしかった。
しかしひとしきり騒いだあとで、堂島はふっと静かになった。そしてついに、この店の紅茶はだれがつくっているのかについてふれてくる。
あいまいに答えて、その名前を言わなかった。理由はふたつ。恵里谷伽藍の名前など出してしまえば、こいつは確実に腰を抜かすということ。その名を明かすことによって、こいつの興味が彼のことばかりにうつってしまうのが怖かったこと。
これはおそらく嫉妬だ。では、なぜ嫉妬なのだろうか。なぜ弟のような堂島リゼを、ほかのだれかに取られることをひどくおそれているのだろうか。
弟のいなかった自分に、それがわかるはずもない。
だが兄が、恵里谷伽藍が自分にこんな感情を向けていたはずもない。
堂島のリクエストで、室内の光は紅茶の缶がぎりぎり見えるくらいに絞られている。だからとなりに寝転がる堂島の顔なんて、あまりにはっきりと見えてしまうのがわかっていた。いちどだけだ。なぜか制限をつけたあとで、ちらりとそれを盗み見る。彼の表情は恍惚に濡れ、そして恋い焦がれていた。その対象が紅茶であることはわかりきっていて、それが兄のつくったものであることが気に食わなかった。
これは恋だ。わかったとたんに意識が脳みその奥へ引きこまれる。
あわよくばすべてが夢に終わり、目覚めたときには忘れていてほしい。そんなふうに都合よくいくはずがないから、つらい。眠れ。眠ってしまえ。いつだって、恋はつらい。
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