03

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実際さあ、佐原くんの料理っておいしいし、こうして私のためにつくってくれることも嬉しいよ。でも女の子をわざわざ家に呼んでおいて、料理を出すだけっていうのもどうかと思うな。いまさらベッドに行こうなんて言われたところでその気になれないし、これ食べたら帰るね。 いつだって恋はつらい。相手と誠実に向きあっているつもりでも、それは相手に自分を「つまらない男」だと評価させるだけだった。 いきなりベッドに誘ったら誘ったで、がっついてるとか言われるしな。 それならばつまらない男でいい。どちらかといえば、そっちの方がよほど自分にお似合いだ。どうせ昔から、個性なんておしこめながら生きてきた。いままでそうしてこれたのだから、これからもそうしていけるはずだ。 兄より前に出ることも、兄より突出したものを持つことも許されない。それが最大の美徳であるように思っていた。ほんとうは、そうしたいと思ってもできやしなかっただけだが、やがてその生き方は勉強や友人関係より恋愛にもっとも影響した。 男としての評価をくだされることはもちろん、ときには人間としての器もはかられる。相手はほとんどが番いとしての役割を果たす男を求めているから、すこしでもぼろを出せばその綻びを深掘りして、別れる理由につなげたがる。向こうから近づいてきたときはそんなものだと思えたが、自分から好きになった相手ならつらかった。みんなだいたい「つまらない男」であることを理由に離れていった。それだけ相手につまらない思いをさせてしまったことは事実で、そのうちつまらない男はひとを好きになってはいけないような気がしていた。 こんなとき、兄ならきっとうまくやるのだろう。なにかに躓いたとき、うまくいかなかったとき、いつも思い出すのは兄の存在だ。無意識に自分と彼をくらべてしまって、羨ましく思うのがくせになっている。だが、羨ましくはあっても妬ましいと思うことはなくて、それがただ痛かった。いっそのこと妬んでしまえば、もうすこし楽になれたのだろうか。あきらめもついて、やがて忘れられるだろう。羨むのはきっと、追いつけるかもしれないというわずかな望みがあるせいで、そしてなかなかとどかないことがより自分を苦しめているのかもしれない。 しかし、こんな性格になってしまったのを、兄のせいだと思うことはどうしてもできなかった。いつだって自分を日陰に入れていた兄だが、それでも彼のせいにすることはできなかった。 憧れの彼を模倣しきれなかった自分が、すべて悪いのだ。 できそこないの自分は、いつも受け容れてもらえることなどない。つまらない思いをさせてしまうから、必要以上に近づいてはならない。好きな相手ならなおさらだ。 だから、いつだって恋はつらい。 スタッフを全員退勤させたあと、ひとりでキッチンをととのえる。このところ、帰宅が遅くなることもかまわず、無意味に時間をかけて作業することが増えた。その場所を整理することは、自分のこころのなかを整理することでもあった。冷たいステンレスの調理器具を並べて、ときには磨いて、単純な動作はとても落ちついた。 入口の鍵はしめたはずなのに足音がする。しかし、自分以外で店の鍵を所持している者はひとりしかいない。Bonsoir、やたらと流暢なフランス語がうしろから聞こえて、ああやはりな、くらいにしか思わなかった。 「雄貴、さっそくだけどさあ、なにあのお茶」 それが半年ぶりに会った弟にかける言葉だろうか。ゆっくりと振り返ると兄はすらりとそこに立っていて、あまり身長はないにしても引き締まった体躯はいかにも写真映えするようである。長い髪の毛は編み込んで左肩に垂れていて、その中性的な美しさに世の中は熱狂しているのだと勝手に思っている。 自分は父親の身長を受け継いだようだが、彼はきっと傲岸不遜な性格を受け継いだに違いない。あとはそれぞれ母親の血だろう。 兄はととのった口元をとがらせて、その美しさに似つかわしくない棘を飛ばす。 「どうして強い香りと強い香りをぶつけちゃう? そのお茶の主役はだれなのか、ちゃんと考えてつくってる? 香りというのは、お茶同士の調和をとるためのつなぎであり、そしてまたそのお茶を美しくデコレイトするお化粧なんだよ」 スタッフルームに置きっぱなしで片づけていなかった失敗作を飲まれてしまったのはあきらかで、いたたまれなくて視線を落とす。それでも「失敗作でなにが悪い」と開き直る気持ちがほんのりと存在することを見抜かれたのか、盛大にため息をつかれた。 「お前のあのお茶は、調和どころか大戦争だ」 兄の言うことは、悔しいがいますぐひたいを床にこすりつけたくなるほど正論で、ぐうの音も出ない。自分たちについている差が、より広がっていくのを感じる。空のかなたにいる飛行機を車で追いかけていたつもりだったのに、ハンドルがいつのまにか自転車に替わっていたような気分だ。そもそも走行するステージが違っている。 「雄貴はブレンドティーがうまくできたらどうしたいの」 考えてもみなかった。どう考えたって完成させることそのものがゴールで、それを用いてどうこうしたいなんて思ったことはない。ただ完成させることで、彼に一歩近づくことができるような気がしていただけだ。それもまた、見抜かれた。 「ワタシにあこがれているだけなんだね」 否定できず、しかしささいなプライドがはたらいて肯定することもできず、ただだまっている。もう帰れよ、という意思表示もこめて、ふたたび彼に背を向けてキッチンの整理をはじめた。 「残念だけど、きっとワタシには追いつけないよ。だってワタシ、天才なんだもの」 自分で言うなと悪態をついてみるが、それは揺るぎない事実だ。世間だってそれを認めているから、そのぶんだけ仕事が舞いこんでくる。多忙をきわめているなかで、こうして店に足を運んでくるのも稀なことだというのもわかっている。だから今日、彼がわざわざここに来た理由を知るのが怖かった。 「あたらしいバイトが入ったそうじゃない。おもしろくてかわいい子だって聞いたけど」 だれに聞いたんだと問えば「城二くん」と。あいつは重要なことをしゃべらないくせに、よけいなところでなんでもしゃべる。兄はいつのまにか城二が戸棚に隠していたビスケットをぼりぼりかじっていて、恩を仇で返してるなとなんとなしに思った。 おさげを揺らしながらのぞきこんでくる顔は、無言でその真偽を訊いているようだった。違うと言えばなんだか『あたらしいバイト』に失礼な気がしたし、実際に自分も彼をどう評価しているかといえば、「おもしろくてかわいい」と思っている。嘘はつけないたちのようで、ゆっくりとうなずく。兄は「そうなんだ。会いたいなあ」と嬉しそうにしていて、すこし後悔した。 「言っとくが、男だぞ」 やんわりと牽制したところで、暖簾に腕押しである。 「ふーん。そのわりに、けっこう気に入ってるんだね」 「おもしろいやつを気に入るのに、男も女も関係ないだろ」 それだけ? 兄の両目が、興味でかがやいた。それだけだよ。嘘はつけないから、声がひどくふるえた。 「そっか。ねえ、なんか紅茶ほしいんだけど」 ビスケットをかみくだいて彼は言う。せっかくかたづけたのに、と文句は言えども抗えずに紅茶をいれてやる。すると嬉しそうにそれを口にしてくれて、なんだかんだで素直な心地よさを感じた。 そういえば、あいつもこんなふうにして紅茶を飲んでくれる。 やはり兄と堂島リゼはこんなところが似通っている。もっとも自分のことを愛している兄だからこそ、きっと自分に似たものは好むだろう。なにより、昔から自分の欲しいものと兄の欲しいものはだいたい共通していた。それがいちばんこわかった。これまではふたりして欲しいものを、ほとんど兄に譲ってきたけれど。 彼だけは絶対に守りとおしたかった。 わきあがる焦燥感と危機感で、てのひらが湿る。じゃあね、また来る。その足音はあっという間に下の階へと消えて、その瞬間ちからがどっと抜けた。 徒競走では勝てるはずがない。足の速さが違うのだから。自転車で飛行機に追いつけるはずがないのだ。 じゃあ、どうする。考えれば考えるほどに絶望的で、シンクのなかに置かれた兄のティーカップをだまってかたづけた。
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