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もしも兄が兄でなかったら、こんな感情は抱かずにすんだのだろうか。 子どものころ、どんなふうに暮らしていたかなんてもう思い出せない。思い出せるとしたら、兄のような存在をただ慕っていたことだけ。そのうち、彼とほんとうに血が繋がっていると知ったとたんに、世界が変わってしまった。すべてがコンプレックスにくつがえってしまった。 自分は金持ちの家の使用人が産んだ子どもで、本来ならばそこで慎ましい態度をとらなければならないはずだった。しかし、旦那様をはじめとした全員があたたかく接してくれたおかげで、その家をみずからの庭のようにして無邪気に遊んでいた気がする。旦那様の子どもは自分よりふたつ歳上で、いつも自分をかわいがってくれ、気にかけてくれていた。 兄様。そう呼んで尊敬の意をあらわしていた。きれいで、勉強もできて、立ち居振る舞いも美しい彼。なにより秀でた才能は、インスピレーションで紅茶をブレンドできることだった。その才能で、旦那様を喜ばせていることが羨ましかった。いつか自分も、お世話になっている旦那様を笑顔にさせたいと思っていた。 兄様は欲しいと言えばなんでも手に入る子どもで、それが当然だった。値段のつくものはもちろん、告白してくる女の子だってひっきりなしだ。自分はというと、なんでも我慢しなければならなかった。自分が好きな女の子ですら兄様のことが好きだ。それが当然だった。当然だからこそ、気にはならなかった。 旦那様の口からそれを聞くことがなければ、おそらく一生そのまま暮らしただろう。 「伽藍、雄貴。実はお前たちはほんとうの兄弟なんだ。今日までだまっていてすまなかったね」 ふたりとも、私の息子だ。死の間際で彼は言った。ずるいと思った。死人になってしまえば殴ることもできない。そうして彼に父さんだなんて呼びかけても聞こえるはずがないから、だれにもわからないようにため息だけをついた。葬儀の席に母親のすがたは見当たらず、それはきっと斎場の規模が大きすぎるせいだということにした。父を亡くして呆然と立つ兄は雨に濡れていたから、そっと傘を差し出したけれど、おなじ傘に男子中学生の身体はふたりも入りきらなかった。おそろいの制服は肩だけが濡れた。 住み込みだった自分と母親が、家を出ろと言われるのも当然だった。幸か不幸か部屋のなかにあるものはほとんどがこの家のものだったから、引っ越しそのものは楽に終わった。 荷造りをしようとしたとき、大きくなった腕でもようやく抱えられるほどの箱が出てきて、いちど考えた。ゆっくりと蓋を開ける。さまざまな匂いが一気に広がって、すぐに閉じた。小遣いで買った、紅茶やハーブの数々だった。兄の真似をしようとしていたのだ。 そしてようやく借りたアパートで、ほそぼそと暮らすことになる。それもずいぶん昔の話のように感じられる。 最近、そのアパートが取り壊されたと知った。そこでの生活の思い出は、夢だったかのようにおぼろげになった。 しかし、結局処分できなかったあの箱が、まだクローゼットの隅で眠っている。 おなじ血を分けあっていながら、生まれながらにしてなにもかも劣っていた。当然であったすべてが理不尽に思えた。ウイスキーはいい。だいたいのものが消し飛んでくれる。いやな記憶も、いい記憶も。大人になったあとで、いつおぼえたのかもわからない味。美味いも不味いもない。ただ、ウイスキーはいい。 だだっ広いリビングで、琥珀色の液体をなめた。この部屋も兄が買いあたえてくれたものだ。それどころか、母親の葬儀の費用をくれたのも、いまの仕事をくれたのだってすべて兄だ。 いつだってあたえられるのは自分のほうで、それがつらかった。ほんとうは憧れで、大好きなはずなのに、その感情にはいつもコンプレックスがつきまとう。自分にないものをなにもかも持っている兄。逆立ちしても兄にはなれない。 それにほら、テレビをつければ。雑誌をめくれば。いやでも彼の顔が目についてしまう。『紅茶の貴公子』として世界に君臨する彼は、いまやその名を知らない者はいない。恵里谷伽藍。それが兄である。 彼がいまの立場にいるのは、彼が紅茶への愛を貫き通した結果だ。もちろん、その美しさが思いきり後押しをしたことに間違いはないだろうが、それだけではこの結果は得られなかっただろう。 自分だって、紅茶を好きな気持ちと、それを楽しむ気持ちは忘れていなかった。そもそも紅茶がいかにおもしろいかを教えてくれたのは兄だったし、それを生活に取り入れることで時間や人間関係を豊かにしてくれることを知ることができたのも彼のおかげだ。あの家を離れてからも、母親がいれてくれた紅茶を飲みながら過ごした。安物だったけれど、いつもあの家と兄を思い出した。 兄は世界を飛び回るバイヤーであり、優秀なティーインストラクターであり、テイスターであり、ブレンダーであり、またコーディネーターでもある。結局は彼を尊敬していて、目標としている。いつかは肩を並べたいとも思う。 だから努力する。努力している。しているつもりだ。 「してるんだけどなあ」 物思いにふけったあとはいつも、溶けた氷で薄くなったウイスキーをあおる。消えろ、消えろ。この感情ごと消えてしまえ。 しかし、彼に勝てることがひとつでもあるとするならば、こうして酒に頼ることもなくなるのだろうか。 朝宮樹があわただしいのはめずらしいことではない。 今日もばたばた階段を駆け上がってきたと思ったら、「アルバイト希望者があらわれた」とひたすらに息をきらしていた。 自分が兄に任された仕事は、彼が経営する紅茶専門店の店長だった。亡くなった父がいつも教えてくれていたおかげで料理をすることは得意だったが、そのほかは未経験のことだらけだ。刺激の強すぎる毎日がつづけば、しだいに感覚は麻痺していく。胸のなかにはどこか虚無感があって、なにをしてもただつまらなかった。 そんなときにやってきたこの知らせは、不意にうなじでも撫でられたかのようだった。驚いたし、なによりそわそわした。こんなにもややこしい仕事だ。バイト希望者なんてものはめずらしく、面接なんてめったにやったことがない。どんな顔をしたらいいのかもわからない。とりあえず曖昧に返事をして、笑顔をつくった。せっかくのバイト希望者に逃げられては困る。 そしておずおずとあらわれたのは、下手をすればまだ高校生にも見えるような少年だった。 「堂島リゼです」 彼が頭を下げると、さらさらの髪が揺れてちいさな耳の横を流れた。ひとまず「緊張するな」なんて言ってみる。緊張しているのは自分のくせに。 紅茶は好きか。わざわざ愚問を投げたのは、いちど席を離れるための口実だった。彼が頷くのを待ってから、彼からすがたが見えなくなるようにキッチンまでさがると、そこでポット一杯のキーマンを淹れた。いったん呼吸をととのえる。 よーし。意気込んだ自分はまるで馬鹿だ。しかし、どうしても彼を逃してはならない。ちょうど従業員が足りなくて困っているのだ。そうしてポットを持って席へもどる。こういうとき、腕にしっかりと筋肉がついていてよかったと思う。そうでなければ、かたかたと無様にふるえていただろう。 しかし自分の情けない感情は、そのとき一気にそがれた。 紅茶を彼のカップにそそいでやったときの、嬉しそうな顔。目を輝かせ、ほんとうに幸せそうにそれを飲むすがた。血色がよくなってピンクに染まった頬がやわらかそうに見える。うっかり見入って、そのうちテーブルに頬杖までついて脱力してしまった。こんな光景を、どこかで見たことがあった。 「おいしい」 その一杯がきっかけになったかのように、彼は笑った。そして語った。紅茶のよさ。おもしろさ。どれだけ紅茶が好きか。好きになった理由と思い出。 そうだ、兄だ。紅茶にかたむける情熱が、愛が、兄そっくりなのだ。 唯一違っていたのは、みずからが語りすぎたことに恥ずかしくなってしまったのか、耳を赤くしてうつむいてしまったことだ。前髪の陰に長い睫毛が隠れている。それがぱちぱちと動く。 「いつから」 それはきっと焦っていた。 「いつから出勤できる?」 なぜ焦っていたのだろう。 どうしても、兄の顔が浮かんだ。彼がこの場にいたら、間違いなく彼を欲しがる。従業員としてではなく、自分のものとして。いやな想像ばかりがめぐる。なによりいやなやつは、ほかでもない自分なのに。 そっと彼の頭にふれた。どうしてもそれを撫でたかった。ふわふわの髪の毛がからまってしまわないように、ゆっくりと。 これで仮に兄が彼を欲しがったとしても、先にふれたのは自分のほうだ。自分はなんてちいさい人間なのだろう。わかっていても、そんなことでしか優越感を得られなかった。
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