還らない、波

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「結婚は、牢獄だ」  彼は突然そう言い捨てると、まるで達観した僧侶のような深い眼差しを僕に向けた。薄闇の中で光る瞳は、不気味な静けさを湛えている。 「だけどね、囚われるばかりが不幸では無い」  その言葉の意味を僕が考えている内に、彼はせっかく僕がその撫で肩に掛けた浴衣を再び脱ぎ捨て、徐に背を向けた。そこで僕の脳は、呼吸諸共停止してしまった。  薄い紗をかけたような朧気な月明かりに照らし出された彼の白い背中には、悍ましい傷痕が数多刻まれていた。火傷、蚯蚓腫れ、そして鬱血痕。中には真新しいものもある。それが何を意味するか、僕は咄嗟に考え付く事も出来なかった。  彼は僕に背を向けたまま、遠くで響く漣のような、不確かな声色で言葉を繋いだ。 「僕は籠の鳥だった。窮屈で、毎日自由を夢に見ていたのです。僕の本質は、このような物ではない、とね。僕は確かに翳りを持って生まれてしまった。だからこそ小さな籠に捕えられていた。僕はそれが、酷く憎かったのです」  彼の言う翳りとは、一体何なのだろうか。そう考えた時に、僕の頭には一つの答えが浮かび上がっていた。 「それは、貴方が、男性しか愛せない事ですか」  彼は肩越しで微笑みながら、小さく頷いた。 「けれども今にして思えば、それは僕にとって幸福への障害であるのと共に、伴侶でもあるのだ。僕はそれを疎ましく、恨めしく、憎く思い、だが決して殺してはならない。僕の僕たる所以は、その重苦しい暗により確立されているのだから。それでね、こうして籠から飛び出し悠々と空を飛んで見て気付いた。僕は、決して不幸では無かった」  僕には結局一体彼が何を言っているのか、半分も分からなかった。間抜けのように唯口を開けたまま、まるで街頭演説でもしている政治家のような彼の答弁を、脳へと取り敢えず垂れ流していたに過ぎない。
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