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起きると彼の姿は何処にも無かった。だが残酷な事に、彼のいた形跡は、確かな輪郭を持って残されていた。脱ぎ散らかされた浴衣。彼の少し甘い匂い。背中の鈍い痛み。絶頂の気怠さや、夢のような心地。そして、涙の塩辛さ。
僕は内庭の向こうに広がる広大な海を、目的も無く呆然と眺めた。朝焼けに染まった砂浜に打ち寄せる波が、一瞬戸惑って還ってゆく。それを見る僕の心は今日の海のようにしんと静まり返っており、酷く不思議な心地だった。
たった一夜、初めて会った男に心を許しただけだった筈だ。それなのに僕の心を支配していた不実な恋人の姿は何処にも無く、代わりに新たな波が、ゆっくりと僕の心に打ち寄せては還っていった。だが決して満たされる事はなく、渇望だけが胸を埋めてゆく。
一晩愛した男は二度と、この腕の中には還らない。僕はこんな虚しい別れの朝を迎えたこの時に、愛とは至極単純であり、かつ難解なものだと思い知らされた。
再び虚ろな思考が窓の外を捉える。空は蒼く、海もまた、蒼い。漣が、遠く揺れていた。
了
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