還らない、波

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 近くにあったバーは、寂れたこの海辺の町に良く似合った、ごちゃごちゃとした古臭い小物と、年のいったマスターが佇む店だった。棚にずらりと並べられた酒瓶だけが、きらきらと煌めいていたのをよく覚えている。  席に付くや揃って強めの酒を注文し、待っている間の繋ぎとして、彼は徐に自己紹介を始めた。 「僕は首藤漣です。さざなみと書いて、れんと読ませます」  貴方は、と問われ、僕は一瞬思案した。こんな見ず知らずの人間に素姓を明かして良いものかと。けれど僕はしがない骨董店の店主だし、身元が割れて困る事なんか無いのだけれど。 「吉崎春彦です」 「春彦、さん」  彼は噛み締めるようにそう繰り返した。  彼は不思議な男だった。品が良さそうでいて、だが何処か退廃的な色気がある。男らしさを感じないのは、線が極端に細いからか、それとも長い前髪を耳に掛ける癖があったからか。だが兎に角見惚れる程に誰の目にも美しい男だった。  僕達は暫く、そのバーで語らった。僕達と言うよりは、酒も入り止まらなくなった僕の情けない心情を彼に聞かせていたに過ぎないのだけど。この町に来た理由や、如何に不条理な理由でこれまでの時間を無下にされたか。僕は丁度昨日、長年連れ添った恋人に手酷く裏切られたばかりだったのだ。  そう言えば彼は最初に、貴方もですかと聞いたから、当然僕は同じ痛みを抱えているのかと思ったのだけど、彼は気持ちの良い相槌を打つばかりで、自分の事は一切話さなかった。  そして気付けば、僕は知らない場所で目が覚めたのだ。
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