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夜鳴きする虫の音色が妙に近く感じ、重い瞼を開くと、月明かりを背に細いシルエットが佇んでいた。それが彼だと気付いたのは、僕が目を開いた丁度その時に、影が前髪を耳に掛けたからだ。
「あれ、すみません」
まだ完全に醒めてはいないが、縺れる舌でもどうにか言葉らしい言葉は言えた。そんな僕の言葉に反応してか、最初からかは知らないけれど、彼は整った顔を勿体ぶるように翳らせて、微笑んでいる。
「お水、飲まれますか」
「あ、いえ、はい」
歯切れ悪く答えると、程なくして彼は透明なグラスに半分程の水を入れて持って来てくれた。
渇いた喉に水を潜らせる間中、僕はずっと無い記憶を探し回っていた。まだ月は高く、そんなに時間が経っているようには思えない。だが一体僅かに空いた空白の間に何があったのか、それはまるで想像も付かない程に真っ白であった。
仕方が無しに彼に視線を向けると、出逢った時は不思議な格好をしていた筈が、何故かその痩せた身体は縦縞模様の安っぽい浴衣に包まれている。
「ここは」
耐え切れずに尋ねた僕を迎えたのは、呆れにも似た驚きの表情であった。
「あれ、まだ酔ってらっしゃるようですね。貴方の取った宿ですよ」
言われて思い出したが、確かに、僕は宿を取った。けれどぼんやりと部屋に通されたものだから、こんな部屋だったか、あまり記憶に無いのが惜しい。
「良い所ですね」
内庭を眺めながら呟いた彼は本当にそう感じているようで、薄い瞼を微かに伏せた横顔を撫でる月光が、彼を輝かせてより妖しく魅せた。一体、何がどうなってこうなっているのか。酒で逆上せた頭では、まるで理解が出来ない。
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