前編

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 だが反して彼の座り姿は僕の心を打った。背筋は冬の枯野に立ち竦む唐松のようにすっと伸びており、富士の裾野のように広くなだらかな肩が凛とした後姿を描いていた。そして彼は、夜をとても愛しているように思えた。それは、彼の瞼の下に落ちた黒々とした隈のお陰だったのだと思う。僕はそれにとても好感を持った。  短い朝礼を終えれば一限目は体育。皆等しく彼との接し方を知らず、閉鎖的な港町の性質故に余所者には冷たいものだ。一声もかける事無く各々着替えを終えて我先にと校庭に飛び出す生徒に、当然吉川は大きく遅れを取った。僕は唯一彼を気遣おうと、出来得る限り柔らかい表情を作りその傍に歩を進めた。そして、慣れないだろうから、一緒に校庭に行こうと誘おうと思っていた。  しかし吉川は、小さな嘲笑と共に、最も僕が想像していなかった言葉を、振り向きもせず乱暴に投げた。 「君は、間違っているよ」  当然僕はその予想外の反応に、首を傾げたり、その意味を問い詰める事も出来ず立ち竦む。 「俺は君の思うような人間ではない」  そう言って振り向いた彼は、やはり口元に皮肉めいた笑みを湛えていた。青年らしい良く焼けた肌に、彼の聡明さを表した引き締まった眉が印象的で、だがやはり僕の視線は彼の目を覆う暗い隈に向く。
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