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7.恋
自宅のリビングに、柴崎がいる。
ソファに座って、やたら行儀よく脚を閉じて、テーブルの一点をじっと見て動かない。
「リラックスしていいよ。誰もいないし」
麦茶を注いだコップを二つテーブルに並べ、柴崎の隣に腰かけた。
「リラックスは駄目だ。よその家では行儀よくしないと」
「行儀よくなくていいって。ほら、安心して股開いて」
なんだか今の科白は怪しかった。
反省して、頭を掻く。
柴崎は表情を変えずにひたすら黙っている。
「あっ、あれ、そうだ、クッキー、食べようよ」
妙な気まずさを払拭しようと、わざとらしく明るい声を上げた。柴崎が鞄を漁って、リボンでラッピングされた透明な袋を俺に差し出した。
「これ、ほんとに柴崎が? どっかの店のみたい」
「昨日の夜、妹と作った」
「妹いいな、俺一人っ子だから。食べていい?」
開封しながら訊くと、柴崎が手のひらを俺に向けて、どうぞというジェスチャーをした。
綺麗な市松模様のクッキーだ。摘まんで、齧る。ココアの苦みがほんのりと口の中に広がって、ほどよい甘さが絶妙だ。見た目も、味も、完成されている。昨日初めて作ってみた、という感じじゃない。
「妹さん、お菓子作りが趣味とか?」
美味い、と褒めてから、訊いてみた。リビングを見回していた柴崎が「いや」と否定する。
「俺の趣味だ」
「えっ」
「……好きなんだ」
まるで罪の告白のように縮こまって言うもんだから、慌てて励ました。
「いや! いいよ、いいと思う、うん。またなんか作ってよ。俺スイーツ好きだから」
「わかった」
柴崎が笑った。やっぱり、笑うと可愛い。少し見惚れてから、照れ隠しにクッキーを貪った。
しばらく二人で黙々とクッキーを食べて、袋がからになると手持ち無沙汰になった。
麦茶を飲み干すと、いよいよやることがない。話したいことはたくさんあるはずなのに、この謎の緊張感はなんだろう。
「綾瀬の部屋を見てみたい」
「へっ、へやっ?」
素っ頓狂な声が出た。想定内ではある。でもやけに、落ち着かない。
「嫌か?」
「いいよ、うん」
柴崎を引き連れて二階に上がる。
「でもなんも面白いもんないよ」
後ろをついて上ってくる柴崎を、見下ろして言った。柴崎は俺を見上げて「いい」と短く答えた。
「なんでそんなにうち来たかったの?」
犬アイコンの「クゥーン」を思い出して、ちょっと笑ってしまう。柴崎は足を止め、うつむいて、頭を掻く。
「別に、だって、好きな奴のことはなんでも知りたいって思う。……変か?」
危うく階段を踏み外しそうになった。平静を装って階段を上りきり、自室のドアノブを握ると、何食わぬ顔でうなずいた。
「いや、うん、わかる。俺も柴崎さんのこといろいろ知りたい」
柴崎の表情が、微妙に変化した。あ、これは、照れているのか。胸がむず痒くなってくる。
「あっはっは」
謎の笑いでごまかすと、ドアノブをひねって自室を開放した。
「はい、ここが俺の部屋です」
柴崎が俺のとなりに立って、部屋の中に首を突っ込んだ。
「綺麗な部屋だ。散らかってない」
「あっ、あー、掃除したから、うん」
「漫画がたくさんある」
「なんか読む?」
「読まない」
と言いつつ、本棚の前に立って、上から順番にラインナップを眺めている。というか睨んでいる。もしかして。
「視力悪い? あ、だから一番前の席とか?」
「眼鏡は邪魔で嫌いだし、コンタクトも怖いから無理だった」
「何それ」
噴き出して、柴崎の背中をバシバシ叩きながら、ある可能性に思い至る。
「あの、俺の顔が好きって言ってたけど、ちゃんと見えてる? よく見たら好きじゃなかったってオチじゃない? わー、ちょっとそれめっちゃ悲しいんですけど」
柴崎が俺を見る。近づいてくる。顔が、すごく、近い。少しでも動けば、唇が触れてしまうのではないか。
「大丈夫。やっぱり好きな顔だった」
鼻先で笑う柴崎の顔が、あまりに優しげで、腰が抜けそうになった。わなわなと震えがくる。
「うわー」
叫んで、ベッドに飛び込んだ。うつ伏せで枕に顔を埋めて、ひたすらうわーうわーと大声を出す。
うわーを十個くらい吸収させて、ようやく気が済んだ。
顔を上げた。ベッドの横に、柴崎が正座で待機していた。
「どうした? どうなった?」
柴崎が心配そうだ。
「ごめん、なんでもない」
飛び起きて、部屋の中を歩き回る。
心臓の高鳴りが止まない。
とにかくじっとしていられない。
ウロウロする俺を、柴崎が見ている気配。
何か話題を振ろう。
「しばっ、柴崎さんて、下の名前なんていうの?」
唐突で不自然な質問だったが、柴崎が正座をしたまま言った。
「るい」
「るい? え、かっけー。どんな漢字?」
「種類の類」
「へー、あ、俺の名前、知ってる? まあ、知ってるよね」
知っていて当たり前、のような傲慢な言い方になってしまった。自意識過剰とは思うが、柴崎は長い間俺を好きだった。知らないはずがない、とくすぐったい思いで訊ねると、予想もしない答えが返ってきた。
「さあ、知らん。綾瀬なのは知ってる」
「えっ……、えっ? 俺の下の名前、知らないの?」
「なんだ? はるかか?」
「誰が女優だよ!」
興奮してツッコミを入れると、柴崎が顔をくしゃ、としておかしそうに笑った。
楽しかった。
何かして遊んでいるわけじゃない。ただとりとめのない話をしているだけ。
時間があっという間に過ぎた。
「そろそろ帰る」
部屋の時計を見て、柴崎が立ち上がる。
「え、もう?」
「犬の散歩がある」
「飼ってんの? あのアイコンの柴犬?」
「そう、今度遊びにきてくれ」
「行く行く」
部屋を出て、階段を下りる柴崎のあとに続く。
玄関で靴を履き、振り向いた柴崎が頭を下げた。
「おじゃましました」
「はい。礼儀正しいな」
「夜に、LINEしてもいいか?」
「うん、話そう」
玄関のドアを開けた柴崎が、振り返る。
「じゃあ、おやすみ、慶一郎」
ドアが閉まる。
玄関のたたきにへたり込む。
今度こそ、しっかりと腰が抜けた。
「知ってんじゃん、名前」
名前を呼ばれただけなのに。
嬉しくて、舞い上がる。
俺はやっと、実感した。
柴崎がめちゃくちゃ好きだ。
胸を押さえた。
恋が、始まる音。
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