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9.友達
柴崎は学校から徒歩十分の近場に住んでいる。
両親は仕事で、妹は中学校、今家にいるのは祖父母だけらしい。それだけ喋ると会話がぴたりと止んだ。お互いにソワソワしている空気を感じる。
大通りからわき道に入り、住宅街を歩く。子どもの声がした。大きな公園がある。ブランコを漕ぐ子どもを横目で見ていると、柴崎が突然言った。
「あれが俺の家だ」
指が、黒い屋根瓦を差している。昔ながらの日本の家、という趣だった。ブロック塀に囲まれた庭に、松の木が見える。スタイリッシュな外観の真新しい家が多く建つ中で、一軒だけどっしり和風に構えている様が、なんだか柴崎を見ているようだった。
「立派な家だなあ」
「そうか?」
柴崎が怪訝そうに訊き返す。
「昔、お前んちサザエさんちってからかわれたことがある。うちは二階があるって言い返した」
「だよな、サザエさんち平屋だもんな」
「そうだ、それに」
柴崎が言葉を切って、口笛を吹いた。
「猫じゃなくて犬がいる」
ワン、と声がした。ブロック塀の下のほうの四角い穴から犬が顔を出している。
「あっ、柴崎さんだ」
思わず声を上げて駆け寄った。
「可愛い、本物の柴崎さんだ、うわー、動いてる」
「それは俺なのか……?」
俺の後ろで柴崎が心配そうな声を出す。
「ほら、LINEのアイコンだしさ、なんか俺の中ではあれも柴崎さんなんだ」
穴から鼻先を突き出して、柴崎、ではなく柴犬が「クウーンクゥーン」と甘えた声で何かを訴えた。
「可愛い……クゥーンって言ってる、ますます柴崎さんだ」
「綾瀬の中の俺はこうか」
「え、はい、可愛いです」
自然と口からついて出た。ハッとして振り返ると、柴崎が眉間にシワを寄せていた。
「前にも言ってた。すごく不思議だ。なんでだ?」
怒っているのではなく、ただただ疑問なのだろう。
「なんでってそれはやっぱり、好きだから?」
柴崎が黙る。グッと唇を噛んで、地面に目を落とす。チラッとこっちを確認して、うつむいて、また俺を見て、やっぱり目を落として、やっとつぶやいた。
「嬉しい」
「うん、へへ」
ワンワンワンワンワン!
犬がけたたましく吠えた。
「えっ、どうした、怒った? お前の主人、盗ったから? ごめんごめんごめんなさい」
「構ってほしいだけだ。それより中に入ろう。早く勉強しないと」
「柴崎さん、真面目だなー」
家の正面に回ると、表札が掲げられた石の門柱があった。そこを抜け、石畳を歩く。玄関は、格子のついた木製の引き戸だった。ガラガラガラ、と思ったより大きな音がする。
「ただいま」
柴崎が言った。きちんと靴を脱いで揃え、客用らしきスリッパを並べてくれた。柴崎は行儀がいい。もしかすると、厳しい家なのかもしれない。
家の中を見回した。年季は入っているが、掃除が行き届いていて清潔感がある。広い廊下はワックスが綺麗に塗られているし、歴史のあるちょっといい旅館に来たみたいな雰囲気だ。
竹刀を持った和装の厳つい祖父と、温泉旅館の女将みたいな祖母が出てきたらどうしよう。
「お、おじゃまします」
先を歩く柴崎の大きな背中に隠れて廊下を進む。戸が全開になっていて、居間が丸見えだった。テレビが点いていて、ドラマの再放送が流れている。パチッパチッと謎の音もする。
「じいちゃん、ただいま」
「おかえり」
しわがれた声が返ってきた。柴崎の肩越しに居間を覗き込み、「おじゃましまーす」と控えめに声をかけた。
「はいはい、どうもどうも」
畳の部屋の隅っこで、一人で囲碁を打つ白髪のおじいさんがいた。上は白の肌着、下は白のステテコという、ほぼ下着姿であぐらをかいている。俺のほうを見たのは一瞬で、囲碁に熱中している様子だ。
「どなた? おじゃましますって言わなかった?」
パタパタとスリッパの音が近づいてくる。廊下に飛び出してきたのはショートボブを明るい髪色に染めたおばあさんだ。金縁の眼鏡をかけていて、全体的に華やかでおしゃれだ。
「まあまあまあ、お友達?」
花柄のエプロンで手を拭いながら、眼鏡の奥の目を丸くしている。
「こんにちは。はじめまして、綾瀬です」
慌てて頭を下げた。おばあさんは少し涙ぐんでいるように見えた。
「類が友達連れてくるなんて……。ちょっと今からケーキ買ってくるから」
「あっ、いえ、お構いなく」
「何して遊ぶ? オセロ出す? それとも人生ゲーム? プレステする?」
「ばあちゃん、今日は勉強会だ。勉強するんだ、二人で」
柴崎がゆっくりと言って聞かせると、おばあさんはわかりやすく目の端に涙を浮かべた。それを拭いながら、「二人で勉強」と声を震わせた。
「それなら今日はシバの散歩、ばあちゃんがやっとくからね」
「うん、お願いします。綾瀬、俺の部屋に行こう」
「あ、うん、はい。失礼します」
おばあさんに頭を下げて、柴崎の後に続く。
「犬、シバって名前なの? 柴犬のシバ?」
階段を上がる柴崎を見上げて訊いた。
「そうだ。上から読んでも下から読んでも柴崎柴」
「なるほどー」
軋む階段を上がり、二階の廊下を歩く。柴崎がふすま戸の前で立ち止まった。
「駄目だ、変なものが出しっぱなしだ」
「え、なになに」
「隠してくるから一瞬だけ待っててくれ」
「えー、いいのに。変なものって何?」
「目を閉じて、いいと言うまで開けるな」
「はい」
目を閉じた。ふすまを開ける音。閉じる音。ノブをガチャっとやって開けるタイプのドアじゃないことに感動を覚える。本当にサザエさんの家みたいだ。もちろん、いい意味だ。
待っていたのは十秒ほどだろう。すぐに戸を開ける音がした。
「もう目を開けていい」
「何隠したの?」
男同士なんだから、恥ずかしがることないのに。柴崎が「何も」とそっぽを向く。
「ふーん、おじゃましまーす」
柴崎の部屋は、想像と違った。もっと武士みたいな部屋かと思ったのに、畳以外は和風じゃない。勉強机が部屋の隅にあって、ベッドがあり、本棚があって、部屋の中央には真四角なテーブルが置いてある。至って普通だ。
壁に柴犬のカレンダーがかかっているだけで、他のインテリア的なものは一切ない、あっさりとした部屋だった。
「シンプルでいいね。なんか、柴崎さんの部屋って感じ。お、この漫画俺も好き」
テーブルの上に積み上げられたコミックを一冊手に取ってパラパラとめくる。
「綾瀬の本棚にあったから、俺も読んでみようと思って昨日本屋に寄った」
「え、そうなの? 言ってよ、貸すのに。これ全三十三巻もあるから、うちおいでよ」
「……じゃあテストが終わったら、読みに行ってもいいか?」
「おー、うん、おいでおいで」
柴崎が目を細めた。一瞬だったが、口元がほのかに笑ったのを見てしまった。
笑顔キターーーー!
「早く勉強しよう」
柴崎が俺の手から漫画を取り上げた。積み上げてあった五冊の漫画本をテーブルの上から勉強机に移動させると、柴崎がまた言った。
「勉強しよう」
やる気がほとばしっている。圧に押され、「はい」と畳に正座をする。
「えーと、どの教科が苦手?」
「全部。特に数学の意味がわからない」
「数Ⅱ? 数B?」
柴崎が難しい顔で考え込んでいる。
「じゃあとりあえず教科書出そうか」
「よろしくお願いします」
向かい合い、テスト勉強を開始する。
柴崎は一生懸命だった。
わからなすぎて苦悶する表情とか、わからないところがわかったときの嬉しそうな表情とか、集中する真剣な表情とか。初めて見るいろんな顔に、俺はずっとニマニマしていた。
「るーい、ケーキ取りに来てー」
階下からおばあさんの声が聞こえた。柴崎の体がビクッとなった。夢から覚めたみたいな顔で俺を見る。
「あれ? 柴崎さん今もしかして寝てた?」
「寝てない。……取りに行ってくる」
「あ、はい」
柴崎が腰を上げ、部屋から出て行った。一人になると、大口を開けてあくびをする。
何時だろう。制服のポケットからスマホを取り出し時間を見る。いつの間にか一時間半経過していた。
めちゃくちゃ集中していたらしい。
「あー、疲れたー」
伸びをしてそのまま畳の上に倒れ込む。
「畳気持ちいい」
スリスリしていると、視線を感じた。ベッドの下に、何かいる。首をゆっくり動かし、横を向く。漆黒の丸い瞳と目が合った。
「え、これ……、もしかしてさっき隠したのって、こいつ?」
ベッドの下に手を突っ込んで、そいつを引き出した。大きなサイズの柴犬のぬいぐるみだった。四本足でちゃんと立つ。
「えー、めっちゃ可愛いな?」
もちろん、ぬいぐるみが可愛いんじゃなく、柴崎だ。
世の中にはいろんな嗜好の人間がいるし、別に男子高校生がぬいぐるみの一つや二つ持っていてもとやかく言うつもりはない。
これを隠したところがなんだかいじらしいと思ったのだ。
ミシ、ミシ、と階段を上がる音が聞こえた。ぬいぐるみをベッド下に戻して、急いで姿勢を正す。
「うちは誰もコーヒーを飲まない。お茶でいいか?」
トレイを抱えた柴崎が、開けっ放しの廊下から訊いた。
「うん、ありがとう」
机の上の教科書やらノートをどかしてスペースを用意する。柴崎がショートケーキと湯気の上がる湯飲みを並べて置いた。
「こんなことは、人生で初めてだ」
「ん? 何が?」
「自分の部屋で友達と宿題をして、ケーキを食べるなんて、初めてだ」
俺の向かいに腰を下ろし、柴崎が両手を合わせた。
「ありがとう」
「あ、うん、こちらこそ」
同じポーズで頭を下げた。そのまま二人で「いただきます」と続ける。
無言でケーキを食べた。
友達、という柴崎の言葉を反復する。
胸がチクリとした。
いや別に、いい。仕方がない。今の俺たちは、どちらかと言えば友達だ。
付き合おうとはなった。好きだとも伝えた。恋も、自覚した。
でも、まだまだ友達以上の関係じゃない。思えば手さえ、繋いでいない。日が浅いから当然といえば当然だ。
かと言って、言い切られると不安がよぎる。
「綾瀬、どうした」
「え」
「まずいか?」
柴崎の皿からケーキが消えていた。俺のケーキは一口しか減っていない。
「いやいや、美味いよ」
慌ててケーキを口に運ぶ。
そもそもの話。
柴崎は、俺と友達になりたかっただけではないのか?
俺の勘違いからすべてが始まった。好き? と訊けば、好きだとうなずく。
でもその「好き」は、恋愛の意味の「好き」とは違ったら?
フォークを置いて、柴崎を真正面から見つめた。
「柴崎さんって、もしかして、俺と友達になりたかっただけ?」
訊いてから、後悔した。
柴崎の目が、俺を見ている。
耳を塞ぎたくて、堪らなかった。
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