第三章 ケパロスとプロクリス〈二〇八〇〉

2/5
5人が本棚に入れています
本棚に追加
/28ページ
-一 「いい調子じゃん。」  すぅうっと、一呼吸入れる。 「ありがとうございます。」  という言葉の尾を噛むように、さむッと声が漏れてしまった。  ドアの向こう側、そこに出れば、鼻からは白い息がとめどなく噴出したのだから。  身体と言語中枢は、なんとも素直だ。 「あれ、コートは。」 「大丈夫かと、思って。」 「あらら。」 「座席に。」 「持ってこようか。」 「いやいや大丈夫ですから。」 「あ。」 「・・どうしました。」 「忘れ物した。」 「してないです、師匠は何にも忘れ物なんかしてないですから。」  ドタドタと慌ただしい足音をたてて、もちろん、叱られたことはないのだけれども、暖かい車内に戻れば、その座席群をすり抜けて、上着をかっさらえば、今度はドアから出る時に気合を入れて。 「さむッ。」 「ハハッ。さあ、行こうか。」  行ってらっしゃいませ、という人工音声を聞き流しならが、バスを背中に歩き出す。  満月に照らされたパーキングエリアに人影はなく、それは当たり前のことなのだけれど、それでも、遠くに居座るイヌの存在を、否が応でも感じやすくなっている。 「ねぇ。」 「はい。」 「こういうのもいいでしょう。」 「そうですね。」 「たまには深夜バスもねぇ。」 「初めて乗りましたけど、快適ですね。」 「ねぇ、うちの車とは違うでしょう。」 「あはは、ちょっと、二人で寝るには狭いですしね。」  言った後に、ああまた言っちゃった、と、乳房の辺りがジクッと痛んだ。 「そうそう、バスならかなり大きいし、それに、色んな環境で集中する良い練習にもなるしねぇ。」  本来夜間に必要のないパーキングエリアへの立ち入りを、それでも数一〇年間続いたスケジュールを変えていない、怠慢なバス会社を探す、探している師匠のことを、夜中、トイレに行く途中に、リビングで見たことがある。  私が、とにかく、ダメだからだ。  甘っちょろい、こんな、もう、いやいや、後ろ向きな、気持ちは嫌になるけれども、それでも、それでも、あの小さな、二人で寝たらぎゅうぎゅうになる、あの車でも、我慢出来たのに。  出来たのに、と、そう、思いたいのも、また、思いたいけれども、きっと、それも、師匠はきっと、わかっているのだろう。  リンクの乱れは、正直だ。  まだ未熟な私を、そこに、寸分違わず映し出すのだから。 「さあ、テスト返しだ。」  眼の前のイヌを、茶色い被毛に触れればパチッと静電気が弾ける。  次に、四肢に触れ、眼を見て、筋肉を触り、脇に触れれば開くそこに、突き出すタッチパネルの、美しい波形を眼下に眺める。 「距離の乱れもそこまでないね。」 「でも。」 「一メートルの差は仕方ない。」 「・・はい。」 「メッセージは。」 「六回、記録されてますね。」 「ユウは。」  脳内にコントローラーを通じて浮かび上がるイメージ、それ通りの三回ですと答えた。 「一致は。」 「そう、ですね、してます。」 「傾向は。」 「野鼠が二回、残りの一回は。」 「うん。」 「・・あの。」 「うん。」 「車、の、ステッカー、ですね。」  師匠は、ああ、と合点の表情を作り、鼠のキャラクターのでしょ、と言った。 「はい。」 「ラリーだねぇ。」 「です、ね。」 「ま、イヌからスタートだから、とりあえずは良しとしようよ。」  脳内のイメージとタッチパネルを交互に確認しながら、そうですね、と答える。 「落ち込まないよ。」 「・・はい。」 「まぁ、影響を出してしまうのは仕方のないことだけれどもさ。」 「はい。」 「ステッカーは、まあ、平面だしね。」 「本物なら。」 「うん。」 「本物なら、見ませんもんね。」 「だねぇ。」 「・・・はい。」 「まあ、もう少し、許すべきだと思うよ。」 「・・はい。」 「今は、パーセンテージは四対六だよね。」 「そうですね。」 「下げよう。」  タッチパネルを触っていた指が、止まる。 「さげ、るんですか。」 「大丈夫大丈夫。」 「・・・でも。」 「信じなさい。」  何を、という言葉を飲み込めば、咳が込み上げてきた。  噴き出したそれは、まるで、壊れた蛇口のようで。  ああ、もう、ほんと。  しかし、なかなか止まらない咳も、師匠が触れば、スッと、身を隠す。  次にその手は、間髪入れずに、タッチパネルに触れて、グラフの波に優しい波紋を作る。  優しい波紋。  優しい波紋が、コントローラーに届く。  届いた波は、コントローラーを、哭かせる。  脳内に、揺れる頭が、哭いて、哭いて、反響を始めた。  そうすれば鼻に、その中に、大きな渦が完成する。  大きく、禍々しい、頭の奥が、鼻の奥が、脳髄が痛む。  ズキンズキンッと、痛む。  それでも、それをスッと吸い込んで、飲み込んで、嚥下して、眼を閉じる。  歯をグッと噛み締めて。  噛んで、噛んで、歯が折れるくらい。  それが人の歯だと、忘れるように。  そして、カンッ。  その音が鳴れば、脳内に響けば、とりあえず、眼を開ける。  そこに映るのは、汗をびっしょりとかいた私と、微笑む師匠。  師匠。  そして、鋭い眼光のイヌが、そこに重なり、焦点の合わない世界が、広がってきた。 「セーブ。」  その声に、はい、と返事をしようとしたが、まだ、なかなか、安定しない。 「ゆっくり、ゆっくり。」  身体が、言うことを聞かない。  私は、あ、れ、私は、ああ、私は、わた、し、は、なんだ、ああ、大丈夫、大丈夫、クリア、クリアだ、眼をカラッポに。  カラッポに。 「クリア。」  自分の口からぽろりと落ちたその言葉を聞いたイヌは、イヌの、その頭の中が、ズウゥンと揺らぐ。  揺らいで、揺らいで、次に、スッと、風が通った。  だから私は、ミントアイスが一番、嫌いなんだ。 「そう、その調子。」  ああ。 「さあ、踏み出して。」  牽かれる。 「もう一匹の自分を、受け入れるんだよ。」
/28ページ

最初のコメントを投稿しよう!