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-一
「いい調子じゃん。」
すぅうっと、一呼吸入れる。
「ありがとうございます。」
という言葉の尾を噛むように、さむッと声が漏れてしまった。
ドアの向こう側、そこに出れば、鼻からは白い息がとめどなく噴出したのだから。
身体と言語中枢は、なんとも素直だ。
「あれ、コートは。」
「大丈夫かと、思って。」
「あらら。」
「座席に。」
「持ってこようか。」
「いやいや大丈夫ですから。」
「あ。」
「・・どうしました。」
「忘れ物した。」
「してないです、師匠は何にも忘れ物なんかしてないですから。」
ドタドタと慌ただしい足音をたてて、もちろん、叱られたことはないのだけれども、暖かい車内に戻れば、その座席群をすり抜けて、上着をかっさらえば、今度はドアから出る時に気合を入れて。
「さむッ。」
「ハハッ。さあ、行こうか。」
行ってらっしゃいませ、という人工音声を聞き流しならが、バスを背中に歩き出す。
満月に照らされたパーキングエリアに人影はなく、それは当たり前のことなのだけれど、それでも、遠くに居座るイヌの存在を、否が応でも感じやすくなっている。
「ねぇ。」
「はい。」
「こういうのもいいでしょう。」
「そうですね。」
「たまには深夜バスもねぇ。」
「初めて乗りましたけど、快適ですね。」
「ねぇ、うちの車とは違うでしょう。」
「あはは、ちょっと、二人で寝るには狭いですしね。」
言った後に、ああまた言っちゃった、と、乳房の辺りがジクッと痛んだ。
「そうそう、バスならかなり大きいし、それに、色んな環境で集中する良い練習にもなるしねぇ。」
本来夜間に必要のないパーキングエリアへの立ち入りを、それでも数一〇年間続いたスケジュールを変えていない、怠慢なバス会社を探す、探している師匠のことを、夜中、トイレに行く途中に、リビングで見たことがある。
私が、とにかく、ダメだからだ。
甘っちょろい、こんな、もう、いやいや、後ろ向きな、気持ちは嫌になるけれども、それでも、それでも、あの小さな、二人で寝たらぎゅうぎゅうになる、あの車でも、我慢出来たのに。
出来たのに、と、そう、思いたいのも、また、思いたいけれども、きっと、それも、師匠はきっと、わかっているのだろう。
リンクの乱れは、正直だ。
まだ未熟な私を、そこに、寸分違わず映し出すのだから。
「さあ、テスト返しだ。」
眼の前のイヌを、茶色い被毛に触れればパチッと静電気が弾ける。
次に、四肢に触れ、眼を見て、筋肉を触り、脇に触れれば開くそこに、突き出すタッチパネルの、美しい波形を眼下に眺める。
「距離の乱れもそこまでないね。」
「でも。」
「一メートルの差は仕方ない。」
「・・はい。」
「メッセージは。」
「六回、記録されてますね。」
「ユウは。」
脳内にコントローラーを通じて浮かび上がるイメージ、それ通りの三回ですと答えた。
「一致は。」
「そう、ですね、してます。」
「傾向は。」
「野鼠が二回、残りの一回は。」
「うん。」
「・・あの。」
「うん。」
「車、の、ステッカー、ですね。」
師匠は、ああ、と合点の表情を作り、鼠のキャラクターのでしょ、と言った。
「はい。」
「ラリーだねぇ。」
「です、ね。」
「ま、イヌからスタートだから、とりあえずは良しとしようよ。」
脳内のイメージとタッチパネルを交互に確認しながら、そうですね、と答える。
「落ち込まないよ。」
「・・はい。」
「まぁ、影響を出してしまうのは仕方のないことだけれどもさ。」
「はい。」
「ステッカーは、まあ、平面だしね。」
「本物なら。」
「うん。」
「本物なら、見ませんもんね。」
「だねぇ。」
「・・・はい。」
「まあ、もう少し、許すべきだと思うよ。」
「・・はい。」
「今は、パーセンテージは四対六だよね。」
「そうですね。」
「下げよう。」
タッチパネルを触っていた指が、止まる。
「さげ、るんですか。」
「大丈夫大丈夫。」
「・・・でも。」
「信じなさい。」
何を、という言葉を飲み込めば、咳が込み上げてきた。
噴き出したそれは、まるで、壊れた蛇口のようで。
ああ、もう、ほんと。
しかし、なかなか止まらない咳も、師匠が触れば、スッと、身を隠す。
次にその手は、間髪入れずに、タッチパネルに触れて、グラフの波に優しい波紋を作る。
優しい波紋。
優しい波紋が、コントローラーに届く。
届いた波は、コントローラーを、哭かせる。
脳内に、揺れる頭が、哭いて、哭いて、反響を始めた。
そうすれば鼻に、その中に、大きな渦が完成する。
大きく、禍々しい、頭の奥が、鼻の奥が、脳髄が痛む。
ズキンズキンッと、痛む。
それでも、それをスッと吸い込んで、飲み込んで、嚥下して、眼を閉じる。
歯をグッと噛み締めて。
噛んで、噛んで、歯が折れるくらい。
それが人の歯だと、忘れるように。
そして、カンッ。
その音が鳴れば、脳内に響けば、とりあえず、眼を開ける。
そこに映るのは、汗をびっしょりとかいた私と、微笑む師匠。
師匠。
そして、鋭い眼光のイヌが、そこに重なり、焦点の合わない世界が、広がってきた。
「セーブ。」
その声に、はい、と返事をしようとしたが、まだ、なかなか、安定しない。
「ゆっくり、ゆっくり。」
身体が、言うことを聞かない。
私は、あ、れ、私は、ああ、私は、わた、し、は、なんだ、ああ、大丈夫、大丈夫、クリア、クリアだ、眼をカラッポに。
カラッポに。
「クリア。」
自分の口からぽろりと落ちたその言葉を聞いたイヌは、イヌの、その頭の中が、ズウゥンと揺らぐ。
揺らいで、揺らいで、次に、スッと、風が通った。
だから私は、ミントアイスが一番、嫌いなんだ。
「そう、その調子。」
ああ。
「さあ、踏み出して。」
牽かれる。
「もう一匹の自分を、受け入れるんだよ。」
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