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W・W
駅の待合所で、W博士が何気なくベンチに腰を下ろすと、その向かいに古なじみが座っていた。
『やあ、ずいぶん久しぶりだね。確か、最後に会ったのは十一年前じゃなかったかな』
鷹揚に古なじみが言った。
「あれからずっと忙しかったものでね。最近、やっと落ち着いてきましたよ」
穏やかにW博士は答えた。
『そういえば、大学を辞めたそうじゃないか。君にしてはずいぶん思いきったことをしたもんだね。せっかくその若さで教授にもなったのに』
「そもそも、それがおかしかったんですよ。僕は人より多少手先が器用なだけの、ごく平凡な男だったんですから。その点、今の職場はいいですよ。自分の好きな機械いじりだけを、毎日好きなだけやっていられますからね。あなたはどう思われるか知りませんが、僕は大学を辞めて本当によかったと思っています」
『いやいや、君がそう思っているんなら、私はもう何も言わないがね。で、これからどうするんだい?』
「どうするとは?」
『きみきみ、私にまでとぼけるんじゃないよ。それが君の悪い癖だ。君は昔からよく言っていたじゃないか。自分に何ができるかはわかっているが、自分が何をしたいかはわからないと。あれからもう十一年も経った。君のやりたいこととやらはもう見つかったのかい?』
「ああ、そのことですか。そのことならもうとっくに」
そう言って、端整な顔をほころばせる。
『ほう。何だい?』
「あなたはご存じないでしょうが、僕は今新婚でしてね。いや、その前から一緒に暮らしてはいましたが、婚姻届を出したのは今年の四月なので」
『へえ、それは知らなかった。それはおめでとう。で、それが?』
「ええ、それが、僕の口から言うのも何ですが、とても綺麗で可愛い〝奥さん〟で」
自分の漆黒の髪を掻きながら、W博士は照れくさそうに言った。
「実は僕とは大学も同期で、しかも一昨年までは同僚だったんですが、あんまり綺麗で優秀な同僚だったものですから、こんなにも時間がかかってしまいましたよ。答えなんて、初めて会ったときにもう出ていたのに」
『おいおい、それは独身の私に対するあてつけかい? まさか、君のやりたいことっていうのは、その〝奥さん〟との子作りだって言うんじゃないだろうね?』
W博士は少し声を立てて笑った。
「それは絶対無理ですね。まず、僕たち二人だけでは無理です」
『どうして? 何か問題でもあるのかい?』
「問題と言えば問題と言えなくもないですが。――実は僕の〝奥さん〟、男なんです」
『……君とは長いつきあいだが、そんな趣味があったとは知らなかった』
「別に趣味で結婚したわけではないですよ。仕方ないでしょう。彼は男だったんですから」
『それは……確かに仕方ないね。で、その綺麗で可愛くて優秀な男性の〝奥さん〟が、どう話に関わってくるんだい?』
古なじみの嫌味に、さすがにW博士も苦笑いを浮かべる。
「僕のやりたいことは何かという話でしたよね? やりたいことというのとは少し違うかもしれませんが、僕はもうその〝奥さん〟の望むものしか作りません。専門のロボットでも、それ以外のものでも」
『……何だって?』
「彼が望まないかぎり、僕は今後一切、自分の意志で物は作りません。修理や日曜大工程度のことはするかもしれませんが、あなたのように無分別に物は生み出さない。彼と結婚する前から、それだけは決めていました」
『……〝奥さん〟を愛しているからか?』
「そうとも言えますね。彼が望むのなら、僕はきっと殺人兵器だって作ってしまう。しかも、何の良心の呵責も覚えずに。でも、人間よくしたもので、彼は天才だけれども、マッドではないんです。ごく平凡な日常。ごく平凡な家庭。そんなものを、意外なくらい愛している。そんな彼の言うことに従っていれば、僕は道を踏みはずさずに済むでしょう。あなたにならずに済むでしょう」
『…………』
「かわいそうにね」
顎の前で両手を組んで、W博士は幾分きつめの目を細めた。
「あなたは彼に会えなかった。会えなかったからそうなってしまった。僕にはあなたの孤独が誰よりよくわかるから、周囲よりもまずあなた自身に同情します。――むなしいでしょう? ただ自己満足のために完璧を追求するのは?」
『…………』
「僕があなたに誇れるのは、彼と出会ったことだけです。地位も名声も財産も僕はいりません。彼が僕のそばにいて、幸せそうに笑っていてくれるなら、僕はもうそれだけで満足なんです。――僕はあなたと会わなかった十一年の間にこの生き方を選びました。でも、あなたはこれからもたった一人で、人類に仇なすロボットを作りつづければいい。それがあなたが選んだ道なのだから」
『…………』
「さあ、これであなたとはお別れです。たぶん、もう二度とお目にかかることはないでしょう。また、そうであってほしいと切に願っていますよ。それではさようなら」
***
「待った?」
はにかむようにそう問われて、W博士は顔を上げた。意識するより先に柔らかく微笑む。
「いや。まだ来たばかりだよ。じゃ、行こうか?」
「うん!」
もう結構いい年なのに、彼はいまだに子供のように笑う。だが、ふと彼は視線をそらせ、今までW博士が見つめていた方向に目をやった。
「どうかしたか?」
そう訊ねると、彼は形のよい眉を少しひそめた。
「嫌なとこに鏡がある」
「嫌なとこって……たまたまそこにあるだけだろう」
内心、W博士はあせったが、表面上は何でもないふうを装った。する気は毛頭ないが、彼なら浮気は一発で見抜くだろう。彼の勘のよさは異常に近い。
「だからって何もこんなところに……ま、いいか。早く行こうぜ。遅くなるから」
「わかったわかった」
ぐいぐい腕を引っ張られて、W博士は苦笑しながら立ち上がった。
そうすると、すぐ向かいの四角い柱に取りつけられた鏡の中でも、長身の男が立ち上がった。
その隣には、W博士よりやや背の低い〝妻〟の後ろ姿があったので、彼はあわてて自分の体で〝妻〟が鏡に映らぬようにした。
(さらば、哀れなマッド・サイエンティスト)
長い髪のかかる〝妻〟の背中を押しながら、W博士は鏡に皮肉な笑みを投げかけた。
(この背中がなかったら存在していた、もう一人の俺)
―了―
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