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「……オレなら此処にいるぞ……さっきからな……」
道場の片隅から、不気味な声がした。
「何っ!」
楠と山下が、その声に反応して同時に振り向く。
闇に眼をこらして見ると、確かにそこには人影が立っていた。
「く……っ! い、……いつの間に……」
暗くて分かりにくいが、長身に恵まれた体格。獣のような不気味な雰囲気……その人相風体は、まさに部員達に聞いていた通りである。
「……なるほどね……『それ』は極めると其処まで出来るのか」
楠は内心、舌を巻いた。
『己の気配を消す』これは、殺人術にとって初歩と言っていい。
打つにしろ絞めるにしろ、相手に気取られてしまえば仕留められる可能性は大いに下がり、逃げられる危険が増すのだ。確実に相手を『仕留める』のであれば、己の気配を殺す技の習得は必須と言えよう。
無論、その技術は楠とて心得はある。
だが、柔道の試合であれば相手から隠れるという状況はないし、姿を隠す意味もない。相手に自分の繰り出す技を気取られない程度に発揮できれば、それで充分であった。
だが、桜生は違う。
養父・片桐の薫陶を受け、只管に術の完成へ邁進してきたのだ。それは、時として師匠ですら欺けるほどであった。
「……何て野郎だ……全く気が付かなかった……」
山下は自分が震えている事に気づいた。眼の前に居る『それ』は、明らかに自分達とは異質な『何か』だった。人間よりもむしろ『獣』に近い雰囲気と言っていい。
『何をしてくるのか』が全く読めないのだ。
ふと、山下は以前に聞いた羆専門の猟師の話を思い出した。
羆は狡猾な獣である。如何に自分が強くても、猟銃相手には分が無い事を知っている。だからマタギが来るとすぐに姿を消すし、万が一接近を許したとしても『完全に気配を消す』という芸当が出来るのだ。
老獪な羆ともなると、ベテランのマタギが一メートル以内に接近しても、その存在が分からないという。
コイツは……人間じゃねぇ……。
今、眼の前にいるのは『そういう種類の獣』なのだ、と山下は理解した。
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