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「そうか……まぁ、お前の腕なら万が一にも遅れを取る事も無いと思うが……」
何しろ『欲』がない。栗田は己の愛弟子をそう見ていた。
持ち前の柔道センスとフィジカルは、正に天が与えた才能といって良い。もっと欲と探究心があれば更なる高みとて夢ではないと思うと、栗田としては残念でならなかった。
「宗家を目指そうとは思わないのか? 五縄流の真髄を極めようとは考えんか」
身体を少し前のめりにして、今一度と愛弟子に問うてみるが。
「はは……どうでしょうか? ボクは大学柔道の方でも全日本選手権が近いですし。今はまぁ、『それ』を目指す理由もありませんね。……ただ、相手がどうしても『真剣勝負で』と絡んで来るのなら。……そのまま蹴散らす迄ですが」
楠はこれをすかして、日焼けした畳の上にすっくと立ち上がった。
「では、これで。大学の後輩を稽古場に待たせておりますので」
師匠に軽く一礼をすると、楠は栗田の道場を後にした。
楠の通う至秀館大学の柔道場は、構内でも少々奥まった場所で木漏れ日に照らされるプレハブの建物だ。
『片桐桜生』が現れたのは『午後三時を少し回った頃合いだった』と、後に警察の事情聴取に対して部員が証言している。
突然、何の前触れも無くガラリ……と、部室の引き戸が開いたという。
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