第37話 顔を元に戻してよぉっ

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第37話 顔を元に戻してよぉっ

 ヒューバートは突如として凄まじい絶叫を上げた。鉄格子を握りしめる指先に伸びた鋭い爪が掌に食い込み、鮮血が噴き出す。  みしみしと鉄格子が撓んだ。強度に不安はないものの、ヒューバートの狂乱は単なる怒りによるものではなかった。背骨が軋むほどのけぞり、硬直した体勢のまま床に倒れ込んでしまう。  激しい苦痛で身体を反らせ、ヒューバートは血走った目を限界まで見開いた。顎が外れそうに大きく開いた口の端に黄色っぽい泡が噴き出した。  オージアスはチッと舌打ちをすると、壁際の棚を開けた。 「……やはりアラス城で死んだことにしておいて正解だったな」  苦々しくオージアスは呟いた。ヒューバートの変貌は予測どおりには行かなかった。普通なら拒絶反応さえ乗り越えればおとなしくこちらの意のままになる。受け入れられずに死ぬか、傀儡として蘇るか、そのどちらかであるはずだ。にも関わらず、ヒューバートは肉体的にも精神的にも闘い続けている。 「予想外だったな。甘ったれたやわなお坊ちゃまとばかり思ってたのに」  薬と暗示でどうにか抑えていたが、それも限界に達し、ふとしたはずみで不安定さが露呈するようになった。そこで、アラス城で用済みになった学生どもを特務に引き渡し、ヒューバートは追い詰められての自殺を装うという計画を立てたのだ。 「特務の指揮官に変身を見られたのはまずかった。まったく余計なことをしてくれて」  ぼやきながら檻の前に戻ってきたオージアスは、うんざりと顔をしかめた。 「そう暴れないでください。薬が打てないじゃないですか」  言葉自体が巨大な掌になったように、ヒューバートの全身を床に押さえ込む。動きが封じられたのを確かめ、オージアスは鉄格子の一部を解放した。  こういうことは何度もあった。興奮し過ぎるとヒューバートの内部でせめぎ合っているふたつの要素のうち、もともと彼が受け継いでいる要素のほうが暴走を始めるのだ。 「さすが神の血統はあなどれませんね。普通は一度の投与で充分なのに、こう何度も補充しなければならないとは。お蔭でストックが激減してしまいましたよ」  腹立たしげに呟いたオージアスが、ぐったりしたヒューバートの首に注射針を刺そうとした瞬間。跳ね起きたヒューバートの頭部が屈み込んでいたオージアスの額に激突した。  壁際まで吹っ飛んだオージアスが眩暈をこらえて顔を上げた時、ヒューバートは開かれたままの檻からすでに抜け出していた。  オージアスは反射的に起き上がり、「待てっ」と怒鳴りながら無我夢中で後を追った。頭部にもろに食らった衝撃のせいで視界が回る。  かろうじてヒューバートの背中が見えた。闇の障壁が破られる。そうはさせない──!  オージアスの右腕が膨れ上がり、上着がずたずたに裂けた。蛇のように絡み合う赤黒い触手が空を切り裂いて、一直線にヒューバートに迫る。  その途中で触手の先端はさらに分裂し、鋭い針となった。ヒューバートの全身に突き刺さった棘は内部で花が開くように分裂して反り返り、弾け飛んだ。  それはまさに一瞬の出来事で、オージアスの眩暈が収まった頃にはヒューバートの上半身はぐずぐずの肉塊と化していた。 「くそっ……!!」  オージアスは激しい罵声を上げた。眩暈と動搖で、とっさに調節できなかった。 「あーははは! 派手に殺っちゃったねぇ!」  狂ったような哄笑が響く。物音に気付いて戻ってきたジャムジェムが、さも可笑しそうに飛び跳ねていた。ざまを見ろとでも言いたげに歯を剥き出して大声に嘲り笑う。 「こんなミンチになっちゃったら、どんなに頑張っても復活は無理だ。どうしよう~。どうするぅ? あはっ、あははっ! こいつ、最後の仕上げにはどうしても必要なんだよねぇ? どーすんのさ。こいつがいなけりゃ花火は上がんないよぉ。ばーか」  ギリ、と歯噛みすると同時に、オージアスの触手が鞭となってジャムジェムに迫る。 「は! そんなんでジャムジェムを捕まえられるとでも──」  余裕で躱したつもりが、次の瞬間背中から衝撃が胸を突き抜けた。幾筋にも分かれた触手の一本が、背後からジャムジェムを貫いていた。  左胸から突き出した触手は無数の棘に分裂しながら反転し、左頬に突き刺さった。オージアスは怒りに軋む声で吐き捨てた。 「黙れ、能無しが」  悲鳴を上げてジャムジェムは転げ回り、顔から触手を引き剥がそうとした。その顔が異様な変貌を始める。細かい無数の棘が刺さった場所から、陶器のようになめらかだったジャムジェムの肌が茶色く染まり始めた。  たちまち皮膚は潤いを失い、ミイラのように乾燥してしまう。触手から解放された時、ジャムジェムの左胸に開いた穴からはどす黒い血があふれだし、顔の半分は見るも無残に干からびていた。 「うわぁぁぁ……っ!! 顔が、ジャムジェムの顔がぁっ」 「おまえが失敗したお蔭で代役が確保できたことになるな。癪に障るが礼はしてやる」  胸の傷を癒すことも忘れ、少年はオージアスの足元に這い寄った。 「戻して! ジャムジェムの顔を元に戻してよぉっ」 「ソニアをここへ連れて来い。どんな手を使ってもいい。ただし、生きたまま攫って来るんだ。それができたら顔を元に戻してやる。いいか、生きたままだぞ」  涙を流して足にすがりつくジャムジェムを邪険に蹴飛ばし、オージアスは闇の向こうへ消えた。  後には甲高い少年の啜り泣きだけが薄明かりに恨めしくこだましていた。
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