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「次のニュースです。〇〇県〇〇市の住宅で、この家に住む47歳の男性が包丁のようなもので腹など複数箇所刺され、死亡しているのが発見された事件で、主人を殺したと出頭し殺人容疑で逮捕された44歳の妻が、男性から長年に渡り家庭内暴力を受けていたと供述していることがわかりました。警察は殺害に至るまでの経緯や詳細について、正当防衛の可能性を含め慎重に捜査を進めていく方針です」
アナウンサーが読み上げたテレビのニュースに、自然と食器を拭く郁美の手が止まった。昨日夕方に流れたニュースでは、夫婦の揉め事程度にしか思わなかった事件。しかし新たに加わった家庭内暴力という言葉に、郁美の心中は穏やかではなかった。
郁美は支配さえされていたが、優作からの仕打ちが家庭内暴力であるとの自覚は初めからあった。身体的、精神的暴力に加え社会との隔絶を強要されている現状に、逃げたいと思うことはあっても実際に行動することはしなかっし、出来なかった。殺されるかもしれない恐怖を感じたからといって、逆に夫を殺してしまおうなどと考えたこともなかった。
この人は、解放されたんだ。自らの手で夫の支配から逃れたんだ。
じゃあ、私は? 私はいつ、解放されるの? このまま年を取って、生きる意味もわからず、小さな幸せを感じることもなく、つまらない人生だったとこの狭い部屋で死んでいくのだろうか。
そこまで考えて、頭を振った。それまで生きていられるのかすら、今はわからない。
次々に読み上げられるニュースの内容など、郁美の耳には届かなかった。
ぼんやりとした一日が過ぎ、夕食を食べずに夫の帰りを待っていたその日の夜遅く。インターホンに呼ばれ扉を開けると同時に、珍しく泥酔仕切った姿の夫と、その肩を担ぎふらつく同僚と思われるスーツ姿の男が騒がしく玄関になだれ込んだ。
「先輩、大丈夫ですか? ご自宅ですよ、着きましたよ」
挨拶もそこそこに、玄関に横たわりうんうんと唸る夫に声をかける男に、郁美は戸惑いながらどうしたのかと尋ねた。泥酔で帰宅することはあっても、誰かに担がれて帰宅するなど、結婚してから初めての事だった。
「いえ、その…。ちょっと仕事でトラブってしまって。やけ飲みみたいになってしまって、すみません、私も止めたんですが…」
二人で優作を抱き起こし、寝室のベッドへと運ぶ。すぐに寝息をたてはじめる優作の横で、郁美は思わず溜息をついた。
城田と名乗った男は同じ部署の優作の後輩で、名前だけは優作の口から時々聞いていた。ああ、この人のことだったのかと、郁美は思う。お気に入りの後輩であることは、優作の口ぶりから気付いていた。若々しく、スーツ姿でもしっかりわかる鍛えられているだろう体躯。思わず、ドキリとする。
謝罪と共に帰りますと腰を上げる城田に礼を言いながら、郁美は咄嗟に、酔い覚ましに少し休んで行くよう引き留めた。リビングのソファに促し、たっぷりの氷を入れた水にレモンを添えて城田に勧める。これはいつも飲み過ぎた優作に出すものだ。城田はありがとうございますと丁寧に頭を下げ、喉を鳴らして飲み干した。
優作以外の男と二人きり。他愛のない話をするのも久しぶりだった。
「先輩、奥さんのことあまり話してくれないんで、今日お会い出来てラッキーでした」
彼がこの家に来て十分程しか経っていないだろうが、長居するのも悪いのでと再び丁寧に頭を下げながら、未だおぼつかない足取りで玄関を去る城田を見送る郁美は、ほんの少し穏やかな気持ちになったのだった。
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