シバザクラ

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 付き合っていた時期には、こんな生活が待っているとは露程にも思わなかった。とあるカフェで偶然出会ってから、優作から会うたびにアプローチを受けたのだ。高学歴や大企業勤めを鼻にかける事なく気さくに、一般企業の派遣だった郁美にとても優しく接してくれた。事ある毎にプレゼントをくれ、毎日のように容姿を褒め称え、頻繁に旅行にも連れて行ってくれた。大事に大事に、郁美を思いやってくれていたのだ。それはまるで、お伽噺の王子様のように。  郁美の親が離婚し、どちらとも連絡をとっていない事、所在不明である事を打ち明けた時にも、そんなことは結婚になんの影響もない、両親は事故で亡くなった事にしようと言ってくれた。そうすれば優作の両親にも何も言われないだろうし、結婚式に両親が居なくとも 誰にも何も言われず気兼ねなく執り行える、と。 「俺が郁美を一生面倒見ていくよ」  そうプロポーズされ、この人となら私は幸せになれると、心の底から優作を信頼し、結婚に至ったのだった。 「あぁ、食った食った。お前も食べろ」 「はい、いただきます」  優作がソファに寄りかかり膨れた腹を撫でる。  よかった。今日は残さず食べてくれた。郁美はホッと胸を撫で下ろし立ち上がる。台所で自分のご飯と味噌汁をよそい、自分の分のおかずをテーブルに並べ、優作の横で正座をして食事を始める。  会話はない。優作がテレビに向かって小言を言い、時たま笑うだけ。そしてスッと郁美の前にグラスを差し出し、郁美は直ぐ様それにビールを注ぐ。ゆっくり一緒にテレビを見て笑い合う時間は、もう随分前に消えてしまった。   このマンションも優作が独身時代に購入したもので、郁美は少ない荷物を運び入れるだけだった。彼と共に穏やかに、幸せに暮らそう。愛の溢れる温かい家庭を築こう。当たり前のように明るい未来を思い描いた。  引っ越しが終わり、市役所に婚姻届を提出し、面倒なすべての手続きが終了したその日の夜に、郁美の描いた未来は突然に黒く塗り潰され、切り裂かれた。  彼は言葉通り、豹変した。
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