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「いってーなぁ、ったく」
キッチン台に身体をもたれ座りこむ郁美の頭上から、聴いた覚えのない声が降ってきた。呆然とその声に顔を上げると、そこには酷く冷めた目で自分を見下ろし、右手の拳を擦る夫の姿があった。
左のこめかみあたりには、感じたことのない痛みと重み。台にぶつけたのか、右腕も痛む。私は今、夫に殴られたのか。郁美の身体が震えを覚える頃にはそう理解することができた。
優作はゆっくりと腰を落とし片膝をつくと、何も言わずに自分を見上げていた郁美の頭に手を伸ばし、思い切り髪を掴み上げた。
「可愛い郁美。震えてるね? 怖いの?」
声も出ず、閉じることも忘れた目から頬を伝い零れ落ちる涙を、優作は口角を吊り上げたまま舐めとった。
「や、いや…」
顔を背けようとするも、ギッチリと掴み上げられた髪がそれを許さず、気色の悪い夫の笑顔が唇を塞いだ。
「逃げようなんて思わないで。郁美の居場所は俺の隣だけ。他のどこにも、郁美の居場所なんてないんだよ。郁美を愛しているのは俺だけなんだ。郁美を必要としてるのも、世界中どこを探したって、俺だけなんだよ」
キッチンの床で仰向けになった郁美の細い首にかけた優作の手には、血管が浮き出ていた。苦痛と恐怖に歪み涙に濡れる郁美からは酸素を求める短い呻き声が漏れ、激しく腰を打ち付けながら甘い言葉を囁く優作の声は、朦朧とした意識の中でもはっきりと聞こえていた。
「…たす、け」
たすけて。そう懇願し、必死に優作の手を引き離そうとする。優作はその声に反応したように腰の動きを止め、郁美の首をしめ続けたその手をゆっくりと離した。
むせ込み荒く呼吸を繰り返す中、途切れ途切れに許しを請う妻を眺める優作は、愛おしそうに、妻の顔にへばりつく髪の毛を撫で取る。そのままゆっくりと正面を向かせ、震える唇をそっと指でなぞると、笑顔で拳を振り上げるのだった。
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