第5章

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第5章

 電車に揺られていると、帰るのが億劫になってきた。あのまま結衣と一緒にいたかった。しかし焦る気持ちを鎮めるためにも帰った方がいいのかもしれない。今日は啓一が楽しみにしていたフットサル仲間の集まりだったはずだ。彼はどんな気持ちで、私を待ち構えているだろうか。怒りか、それともあきれているか。私には想像がつかなかった。私のイマジネーションは今すべて結衣に向けられている。結衣のピアノはどんな色や形をしているかだろうか、と空想に耽る。  結衣の音楽は深い森を思い起こす。濃い緑のなか、多くのものが生きて死ぬことを繰り返すような、残酷な優雅さがある。今日、結衣のピアノを聴いて、初めて結衣の「熱情」を聴いたときのことをありありと思いだした。結衣の本質はピアノにある。それが変わっていないことが、私に安らぎを与えた。結衣は、私たちの互いの不在の時間を、ピアノを使って、軽やかに飛び越えてきた。結衣の演奏は私にはそう聴こえた。  啓一の部屋に鍵はかかっていなかった。私は恐る恐るドアを開けた。 「遅かったな」  啓一はドアが見えるソファに座って、煙草を吸っていた。禁煙していたはずなのに、と思ったが、彼はいら立っているのだとわかると、私は手酷く抱かれるのかと想像した。寒気がする。愛に満ちた身体をおもちゃのように扱われることを、今はされたくない。 「今日、フットサルの日でしょ? 啓一はもっと遅くなるかと思った」  啓一には白々しく聞こえたかもしれない。けれども、私のとっさの言葉はこれが限界だ。 「茜。君がどこにいるかもわからないまま、遊びに行けるほど俺は豪胆じゃないよ」  啓一はソファから立ち上がり、私の頬を撫でた。やめて。触らないで、と言いたかったが、出てきた言葉は違うものだった。 「ごめんなさい。結衣と再会できた嬉しさで、舞い上がちゃった」 「良かったな」  私への愛情に満ちた啓一の目はどこか冷たく感じる。彼は付き合い始めてからは、いつだって私のことを一番に気遣ってくれた。今日だってきっとそうだと、願うように、啓一を見つめた。 「それで、彼女とは寝たのか?」 「なんでそんなグロテスクなことを訊くの?」  私は啓一の質問に間髪を入れずに、逆に質問し返した。そして彼は手を上げた。私は甘んじて平手だろうと、拳だろうと受け入れる。その準備をしてきた。しかし結果的に彼は私を殴ろうとはしなかった。音を立てて、ソファに座る啓一は、疲れ切っているように見えた。私が結衣と単純にワンナイトスタンドを楽しんでいたら、啓一はここまで感情を表に出すことはなかったのかもしれない。  初めてセックスをしたのは、十九歳のときだった。クラブのソファで隣に座った男の子が相手だった。特に格好が良かったわけでもないが、会話が弾んだ。彼は私を必要以上に持てはやした。お酒が入っていた私は、それに気を良くして、身体を許した。もともとクラブなんて音楽に興味のない私には、セックスの相手を探しに行くようなものだった。月に一度、流れる経血と同様に、自分が処女であることが疎ましく感じていた。さっさと面倒なことは済ませてしまいたい。私はそう感じていた。処女を捨てるのは、生理で苦しむよりも簡単だと私はそのとき知った。世間が何かと騒ぐセックスにそれほどの感動は私にはなかった。ピストン運動と私の血が流れただけ。その血は生理のそれとあまり変わりがなかったのをよく覚えている。私を抱いた男の子は、ごめんと謝った。私は首をかしげた。なぜ謝られるのか、わからなかった。そして私が初めてだから謝ったのか、と納得がいった。 「こういうことの後に謝るのはずるいと思う」  私がそう言うと、彼は沈黙した。気まずいまま彼とホテルを出て別れた。血を流しながらも、私はそれでも清々しい思いだった。二十歳を目の前にして、ようやく処女を捨てられた安心感。そして想いには嘘をつけないが、自分の身体なんていくらでも裏切れることがわかった。  それから何回か夜遊びの果てにセックスをしたが、すぐに厭きてしまった。寝た男たちに興味が持てなかったからだ。かと言って女性とセックスしたいとも思わなかった。特に結衣とは。結衣の存在は愛だ。それはほのかな性愛で、セックスという行為そのものを想起すると、罪悪感に苛まれた。結衣の指は、私の性器を愛するのではなく、ピアノを通して私に愛を注いでいたから。それ以上の素晴らしい愛情表現を私は知らない。  啓一は私を丁寧に抱いた、たったひとりの男性だ。彼は私の考えも、身体もないがしろにしたことはない。快楽の波は寄せては引き、その緩慢さに私はいつも焦れていた。それでも私と啓一は一緒に住むようになると、セックスレスになった。それでも私は啓一との関係に満足していた。結衣が私のところに戻ってくるまでは。 「俺とのセックスはそんなに滑稽だったか?」  啓一の絞り出すような声に、私は思わず彼を抱きしめ、違うと言った。 「啓一が私を愛してくれていなかったら、今の私は存在しない」 「茜にとって、俺はいったい何者なんだよ」  その啓一の問いに私は何も答えられなかった。恋人、パートナー、大切なひと。しかしそれらは結衣との再会で、無意味な概念になりさがった。私は何も言えず、啓一を抱きしめた。  それは啓一への最低限できる愛情表現だ。彼はいま私のせいで傷ついている。傲慢と思われるかもしれないが、それを癒せるのは私だけだ。 「二週間、時間をくれ。それまでにはどうにかするから」 「私も自分の部屋に戻るから」 「そうしてくれると助かる」  その日、私に背中を向けて寝る啓一は小さく見えて、私は自分の感情が、啓一がこんなに傷ついているのに心が動かないことが、冷めているのこが、少しだけ悲しくなって、彼を見ないように寝返りをうった。  目を覚ますと、隣に啓一はいなかった。 「茜がでかける頃に、帰ります。俺の元に帰ってきて欲しい」  サイドテーブルにそう書き置きが残されていて、私はそれを捨てるかどうしようか迷って、そのまま置いておくことにした。一回、自分の部屋に帰ろう。そして荷物をまとめて、結衣のところにいたい。あと十三日。残された時間で私は、結衣の音楽に、愛に溺れていたい。離れずに、そばにいたい。  私は部屋に帰ると、大急ぎで荷物をキャリーカートに詰めた。最低限の荷物にしたはずが、仕事があるので、カートはすぐいっぱいになった。来週は仕事を休もうと思いついて、週明け上司にどう話しを通そうかと頭を抱えた。  いつも通り過ぎている駅前の花屋に、私は目を奪われた。花束をプレゼントしたら、結衣は喜んでくれるはずだ、という予感に胸を躍らせた。結衣と再会して、あらゆるものが新鮮に、違う意味を持って私の前に、立ち現れる。いま私の世界は呼吸をするように音楽で満ちている。私は花屋のドアを開けた。  いらっしゃいませ、どういうお花をお探しですか、という店員さんの言葉に、私は迷った。今まで花を贈った経験なんて、なかったから。それでも薔薇や百合はありきたりで、嫌だった。もっと個性があって結衣にぴったりの花。それをどう店員さんに伝えればいいか、わからなかった。  店内をうろついていると、アヤメにも百合にも似た白い花が目に入った。香りも個性的で、私はこの花だけを花束にして欲しいと店員さんに頼んだ。 「なんていう花ですか?」 「クラジオラスのトリスティス・コンコロールという花です」 「これをください」  ラッピングをしてもらっている間、私は店員さんの花にまつわる話を始めた。 「グラジオラスは古代ローマで使われた、短剣グラディウスを模していると言われています。花言葉は勝利やたゆまぬ努力とか言われていますね」 「じゃあ、ぴったりだ」 「良かったです。ありがとうございました」  強い芳香を放つ花束を抱えて、私は会場へ向かった。  会場裏に着くと、パットに連絡をしておいたおかげか、関係者入り口から入ることができた。そしてバックステージパスをパットから渡されて、私はそれを首からかけた。  楽屋に入ると、結衣は化粧をしている最中だった。 「これ」  私がぶっきらぼうに、花束を渡すと、結衣は化粧をする手を止めて、私の手を取った。 「ありがとう。今までもらったどんな花束より嬉しい」  花束に顔をうずめるサングラスをしていない結衣を見つめた。 「なに?」 「いや、綺麗だなと思って」  そう言うと、照れたのか結衣は私の手を離し、私を叩いた。 「ステージ用のメイクのせいでしょう。そんなこと言うのは茜くらいだよ」  そう言って結衣は花束をパットに渡して、再び化粧に専念した。  ドレスが皺になるから、と結衣は演奏が始まる一時間前から立ったまま、楽屋で過ごしていた。温かいお湯が張られた洗面器に指先を浸し、そのなかで指を動かしたりもしていた。結衣の口数は少なかった。私も話しかけず、結衣の姿を見つめていた。どこか落ち着かない様子は、きっと結衣の頭のなかでは演奏会が始まっているからだろう。彼女の身体には血のように、音楽が流れている。私は結衣の孤独さを感じた。私にできることはただ結衣の寄る辺なさに、付き合うことだけ。離れずに、目を逸らさずに、そばにいること。 「あと五分で出番です」  パットが声をかけてきたスタッフに返事をすると、結衣はサングラスを外し、私に放ってきた。 「私だけを見ていて。私の音楽だけを感じて」  そう言って、結衣は水色のドレスをひるがえし、舞台に向かった。私は結衣の強い言葉に、惚けた。私はいつだって結衣のことしか見つめていない。それは言葉にしなくても結衣にはわかっているはずだ。大きな拍手の音が聞こえてくる。私は舞台袖から結衣の姿を見つめた。  まず結衣のピアノのソロから今日のプログラムは始まる。結衣は小さなお辞儀をして、ピアノの前に座ると、拍手がやんだ。まるで場内が魔法にかかったように静まりかえる。結衣は息をついた。そして鍵盤に指を滑らす。  大きな一音で、私の身動きを奪った。身体が音で痺れる感覚を私は思い出した。結衣の指は口より饒舌だ。高校時代の結衣の言葉を思い出した。音楽にあらゆる感情がとけている。結衣の音は深みを増して、私の感情を揺さぶる。ひとつひとつの音は複雑に連なりあい、結衣だけの音楽になる。それはなによりも官能的だ。そして私は思い出した。桜井邸で聴いたベートーヴェンの「月光」第三楽章を。あの時の鋭利さの代わりに、優しさをこめて、結衣はピアノを弾いているようにも思えた。  なめらかに、踊るようにピアノを弾く結衣は、苦悩から解放されているように見える。煩わしさから解放されて、そこにはピアノへの愛だけがあるように思え、私は嫉妬すらする。最初に弾いていたフレーズが再び奏でられ、私はこの曲の終わりが近いことを知る。一番最初に結衣が弾いた、激しい一音目とはまったく違う、優しいほほ笑みのような音が鳴り終わると、結衣は指を鍵盤から離した。残響が消えると、割れんばかりの喝采が響き渡った。結衣は椅子から立ち上がり、再びお辞儀をしてこちらに来た。 「どうだった?」  私は腕を広げた。結衣がそこに収まるように。オーケストラの団員たちが忙しなく舞台に移動し始める。そんな中でも私は結衣との抱擁を解こうとは思わなかった。私たちの間には言葉なんていらない。音楽だけが私たちを溺れさせるように満ちている。 「じゃあ、また行ってくるね」  結衣は私の背中を叩いて、眩しいライトが放たれているステージに戻った。 「さっきの弾いたのは誰の曲ですか? どこかベートーヴェンの『月光』第三楽章に似てましたね」  私はパットに尋ねると、驚いたような顔をされた。 「アカネは耳がいいね。ショパンの『幻想即興曲第四番 嬰ハ短調』だ。『月光』第三楽章のカデンツァに似ているって言われているよ」 「結衣のベートーヴェンが聴きたかったな」  わがままだとわかっていたが、結衣の「熱情」がいまどのように弾かれるか、「幻想即興曲」を聴いたあとだと俄然、興味を引かれた。 「ユイはベートーヴェンのピアノソナタを得意としているけれど、もっとレパートリーを増やしたいと思っているよ。現代音楽にもチャレンジしているしね。ユイの強味はどんなに弾いても決して満足しないハングリーなところだよ」  パットも熱い目線を舞台に送りながら、そう言った。拍手を浴びる結衣を見ながら、私は寂しい気持ちになった。どんなに演奏しても決して満たされることがない。それは砂漠にスポイトで水を垂らすようなものだ。すぐに乾いてしまう。私にはそんな状態は耐えられないだろう。結衣が持っているのは強靭な精神なのか、それとも何かが狂っているのか、私には見分けがつかない。 「さあ、コンツェルトが響くよ」  私は結衣の背中を見つめながら、パットの言葉にうなずいた。舞台の上。そこがどんなに孤独でも、私は結衣を守る。  結衣の演奏が終わって欲しくない。そう思いながらも、激しく響く音楽は終わった。今度は残響が消える前に、拍手が巻き起こった。結衣は一度、舞台袖に来て、私を見つめた。大きくうなずくことしかできなかったけれど、結衣のくちびるは満足げに弧を描き、また舞台へと舞い戻った。舞台で見せる笑顔は、十代のときのそれだった。無邪気で純粋。変わらないな、と思わずため息をついた。  結衣が舞台袖に捌けてくると、緊張が解けたように、表情筋が弛緩していた。 「すごく良くて、言葉が見つからないよ」  そう言う私に結衣は柔らかくほほ笑み、手からサングラスを受け取った。 「当たり前だよ。茜のことしか考えていなかったんだから」 「それにしては第一楽章のカデンツァは走りすぎていたし、第二楽章は緩慢すぎて寝そうになったわ。ちゃんとオケを聴きなさいって何度、言えばわかるの?」  パットの手厳しい意見を結衣は聞き流していた。そして私たち三人は一度、楽屋へ戻った。  楽屋にはモニタが備え付けられていて、私とパットはそれでオーケストラの組曲を聴いていた。結衣は温まった指を冷やしたくないと再び手盥にお湯を張り、手を温めていた。 「パット、バナナある? お腹すいちゃった」 「アンコールがあるんだから、我慢しなさい」 「ラフコンがどれだけ消耗させるか、パットはわかっているでしょう?」 「わかったわよ」  そう言って、パットは結衣にバナナを渡した。そして結衣は食べながら、モニタを覗いてきた。 「やっぱりいい指揮者さんだよね。よく全体を見渡しているし、細かな指摘が行き届いているからなあ」 「ユイ、あなたも早く彼みたいな演奏家になって、私を楽させて」 「はいはい」  結衣とパットの会話を聞きながら、私は音楽で繋がっているふたりが少し妬ましい。 「難しい顔しているね」 「してません」  結衣が私つついてくるので、頬を膨らませた。まるで私まで十代に戻ったみたいだ。 「そろそろ組曲は中盤に差しかかるんだから、歯を磨いておきなさい」  パットが言うと、結衣は私から離れ、バッグの中から携帯用歯ブラシを出した。 「アンコールはとびっきり甘くする。胸焼けするくらいにね」 「楽しみ」  私は自然と笑いがこぼれた。ピアニストとしての結衣までも、私は独占している。有頂天にならないほうが狂っている。  場内はアンコールの拍手に湧き立っていた。その拍手に答えるように、結衣は堂々と舞台へ舞い戻った。椅子に座ると、指を鍵盤に落とす。ロマンティックな、おとぎ話のような、不思議な曲。 「リストの『愛の夢 第三番』っていう曲だよ」  結衣は激しい演奏の方が得意だと思っていた。しかし「愛の夢」のゆったりとしていて情感を盛り込んだピアノも、傑出している。観客は結衣の見せる夢に酔っている。もちろん私もだ。  最後の一音が消えると、観客たちは立って、拍手をした。これがスタンディングオベーションかと私は感動した。結衣のピアノを求めているひと達がこんなにいるんだ。 「ありがとう、結衣」  私の元に来た結衣に、私はそれしか言えなかった。結衣の演奏は、どんな言葉よりも、行動よりも慈しみに満ちていた。軽くハグすると、結衣はまた舞台に戻り、喝采に答えた。晴れ晴れとした表情は憑き物が落ちたようだった。私は袖から、手が痛くなるまで、惜しみなく拍手をした。スタッフも忙しない動きを止めて、この時ばかりは舞台に向かって拍手を贈った。  打ち上げはカジュアルなフレンチレストランで行われるから、とパットは言うと、忙しなく楽屋を出た。 「マネージャーって仕事が多いんだよ」 「結衣はのん気そうね」 「私が必要とされるのは、ほんのひと時だけだからね」 「その一瞬が連なりあって、結衣の音楽ができるんでしょう?」 「その通り。茜は有能だね。私のマネージャーにでもなる?」  私は聞き返そうとした。公私ともに結衣のそばにいれるチャンスを、私は掴めるかもしれない。でもパットの存在を私は忘れられない。戸惑いを隠せない私に、結衣は話題を変える。 「今日はたくさんシャンパンを飲もうっと」 「明日は予定ないの?」 「午後から取材が二本だから飲んだくれられるんだよ。こんな気持ちのいい夜は久しぶりだからね」  結衣は本当に嬉しそうに笑ってみせた。そして私も思わず、ほほ笑んだ。 「結衣、ルームカードは?」 「ちょっと待ってー」  結衣は宣言通り、シャンパンを浴びるように飲んだ。私の贈った花束だけを手元に残し、あとの花束と荷物はパットに押し付けて、ホテルに戻ってきた。酔っているわりには、指揮者や楽団員と親しげに話していた。話題が音楽となると、しかもいい演奏をした後は、饒舌になるんだな、と結衣の新鮮な面が垣間見えた。  ベッドにダイブした結衣に私は声をかける。 「シャワーは?」 「朝でいい。化粧は楽屋で落としたし。でもさー」  結衣はにやけ笑いを浮かべていた。 「でも、なによ」 「『シャワーは?』って訊かれると、なんか日常に茜がいるんだなって実感できる。抒情的な響きがあるよねー」 「馬鹿を言ってるんじゃないの。私はお風呂に入るからね」 「茜が入るなら、一緒に入る」 「酔っぱらっているんだから、シャワーだけにしておきな」 「はーい」  私はバスタブにお湯を溜めながら、今日の演奏を反芻していた。幸せな時間だった。この時間のために結衣は血反吐を吐くような日々を過ごしているんだろうな、と思うと胸が痛くなった。結衣、あなたの音楽は私だけじゃなく、多くのひとを魅了しているよ。 「あれ、まだ入っていなかった?」 「びっくりした」  結衣が顔を赤らめることなく、裸で入ってきたので、素っ頓狂な声が出てしまった。結衣の身体は締まっていた。私は惜しみなく晒される結衣の肉体を見つめた。ひるがえって私の身体は加齢に伴い、少しだけお腹が出てきている。 「結衣の身体、綺麗だね」 「演奏家なんて体力が勝負だからね。いつもは走っているよ」 「デスクワーカーからすると、耳が痛いよ」 「今度、一緒に走ってみようよ」 「そうだね」  私はバスタブに浸かると、さまざまな感情がほどけた。初めての演奏会はスリリングだったし、結衣の演奏は期待したもの以上だった。 「明日は仕事かあ。行きたくないなあ」 「行かないでよ」 「週末は一緒に過ごせるし、来週は有給休暇をもぎ取ってくるから、待ってて。このホテルから仕事場に通うし」 「だから、あんな大荷物なのね」 「私たちってセックスするのかな」  ふとこぼれた私の言葉に、結衣は首をかしげた。 「茜はしたい?」 「結衣の肌ざわりは、ピアノの演奏と抱きしめ合うことだけで十分にわかるよ」 「セックスって終わりがあるから、好きじゃないな。終わらない懐抱のほうがずっと官能的だよ」 「そうだね」  私たちはバスルームから出ると、お互いを抱きしめ合った。肌が磁石のように、結衣に引きつけられる。かすかな隙間すら疎ましいと感じる。結衣の身体に飲み込まれたかった。私を結衣の音楽にして。私を奏でてて。そんなことを考えながら、ゆるやかな快楽に飲まれて眠りについた。
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