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私は言葉に窮した。私は自分が当たり前に享受している生活が、結衣にとっては憧れだなんて、想像できなかった。そして私は一時でも結衣に悩みなんてないだろうと羨んだことを恥じる。結衣は暗い方がピアノの音色が澄むから、という理由で、音楽室の電気を消して演奏する。暗い音楽室のなかで私は結衣の表情をうかがおうと思ったが、できない。それでもポロンとなる音で結衣の感情はよくわかった。柔らかく優しい音。
「全部、音楽にトケるんだ」
「トケる?」
唐突な結衣の言葉の意味が、私にはわからなかった。愛情を込めてやんわりと可愛らしい曲を弾きながら、結衣は続ける。
「そう。音楽に自分の色んなものが溶けていくの。感していることや欲していることすべてが。今は楽しい気分だから、音に柔らかさが乗っている。でも今この時だけじゃない。自分のなかの多くの蓄積が、音楽に溶けていくんだ。私の全ては、たったひとつの音色のために存在している。ピアノを弾くにはテクニックだけじゃ、だめなの。音楽に自分を溶かして、それが私の音色になるんだ。わかる?」
「言いたいことは、何となくわかる気がする」
そうは言ったものの結衣の音楽の考え方は、音楽をやらない私にとって難しかった。しかしこれだけはわかる。結衣は音楽に全てをささげているのかもしれない。そんな考えが浮かぶと、私は、私が心もとない気分になった。結衣はどんなに孤独だろうか、しかし孤独すらも糧にするのだろうか。すぐ近くにいるのに、私は結衣を少し遠くに感じた。
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