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私が結衣にかけるべき言葉を探しあぐねていると、結衣は「熱情」を弾き始めた。今日の結衣の演奏は、激しさより月光が闇夜を切り裂くような鋭い音のように聴こえる。結衣の指先から奏でられる鮮やかな音は、結衣が抱えるさまざまな感情によって成り立っているのだ、と私は結衣の言葉で思い知らされた。薄暗い教室のなか、音が澄むのは結衣の感情が研ぎ澄まされるからではないか、と私は思う。そして結衣の表情をうかがい知ろうとするが、色のついたレンズに阻まれて、私にはわからなかった。
「私にとって結衣の『熱情』はガトーショコラみたい」
「え?」
「初めて聴いたときは、雷に打たれたようだったけど、今はガトーショコラ。甘くて、しっとりと重厚感があって、それで少しだけ苦い」
「それで食べることに病みつきになる?」
「そうそう」
「自分の演奏を食べ物に例えられたのは、初めてだなあ。しかもお菓子なんて」
「ごめん。即物的すぎたかな?」
「ううん。嬉しいよ」
結衣は困ったように頭を掻く姿を見ると、失言だったのかと後悔した。そんな私の落ち込みようを見て、声をかける。
「茜にそんなふうに思われて、私の『熱情』は幸せだねえ」
他人事のように感心して何度も頷きながら、結衣はそう言った。私の誉め言葉が結衣は気に入ったようで、逆に私が照れてしまった。そして照れを隠すように、私は結衣に提案する。
「あのね、校舎の裏にね、猫がいるの」
「うん」
「親猫とブチと白の子猫がいて、昼休みにミルクあげに行くんだ。放課後もいるかもしれないから、今から見に行く?」
「それって同情?」
「そんなんじゃないよ。本当に可愛い猫なんだよ。結衣にも私の友だちを紹介したい」
「猫が友だちとはね。友猫って言ったほうがいいんじゃない?」
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