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私は結衣から顔をそらし、自分の手元に目線を落とした。私は恥じ入る。結衣の目のことは今まで鬼門のように感じて、触れてこなかった。親しいからこそ聞いてはいけないことがあるということを、私は知っているのに。結衣は、私が不躾な質問をして気落ちしているのをわかっているというように、私の頭を撫ぜた。柔らかくマシュマロみたいな、ピアノを弾くだけのためのある結衣の手。その手が私を慰めるために動いていると思うと、今までに感じたことのない優越感が私の胸を熱くさせた。
「結衣のピアノが好き」
「ありがとう。でも、私はすでにある音楽をピアノを使って増幅させているだけ」
「すでにある音楽ってどういう意味?」
私の素朴な疑問に結衣は、難しく考えることはないよ、と言って続ける。
「音楽は満ち溢れているよ。雨音、衣擦れ、雑踏のざわめき。それはもう音楽なの。私はピアノでそれを掬い取っているだけ」
「それって言うことは簡単だけど、すごく難しいことじゃない?」
「すごく大変だよ」
言葉とは裏腹に、結衣は楽しそうな声で言った。そしてピアノを奏で始めた。小さい子どものおもちゃ箱のように可愛くて、リズミカルに奏でられるこの曲は初めて聴くものだった。私が曲名を尋ねると、結衣はショパンの「雨だれ」と教えてくれた。音楽室がまるで温かい霧雨に包まれたように感じた。結衣は私の知らないことを多く知っている。決して学校の勉強じゃわからないことを。
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