第1章

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 そんな音楽科のなかでも際立った生徒がいることを私は知っている。彼女の名前は矢田結衣。海外の有名ピアノコンクールに中学生で入賞。そして海外で活動するかと思ったら、この学校に入学したことを週刊誌にスクープされた。別世界の人間が私と、少なくとも名前は同じ高校に入学することになると、この高校の合格通知をもらった頃に知った。そして矢田にはもうひとつ特徴がある。彼女は左目が斜視なのだ。それを隠すために色のついた眼鏡をかけている、とクラスメイトが騒いでいたのを知っていた。さすが音楽科サマは違うよね、と。おしゃれのためのカラーコンタクトと矢田の眼鏡の決定的な違いを、理解できるほど、クラスメイトは大人じゃない。ピアノを弾いていたのは矢田結衣に違いない。しかしなぜ矢田は一般棟で弾いていたのだろうか。 「市野川さん」 「はい」 「テキスト六十二ページ五行目から読んで、訳しなさい」  まるで頭のなかで授業をサボタージュしていたのを見透かしたみたいに、英語の先生は私を指名してきた。つかえながらも音読をし、ノートに書いた日本語訳を読み始めた。しかし訳は一行しか書けていない。私は冷たい汗を首筋に感じ、二行目からは教科書を見ながら訳を即興で続けた。 「そこまでで結構。市野川さん、予習はしっかりしなさい」  私が着席をすると、女子からの忍び笑いが教室に広がる。昨日は結局、両親の喧嘩がやまず、お風呂から出てすぐ布団をかぶって寝てしまった。そのせいで今日の予習ができなかったんです。そう言い訳したかったが、私は先生の言葉に小さく、はい、としか言えなかった。私はガリ勉科の落ちこぼれ。あんな綺麗な演奏をする矢田結衣にはきっと悩みなんてないのだろうなと思い、私は翻然と教科書とにらめっこをした。     
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