第1章

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 放課後の自習は身が入らない。初めて矢田結衣のピアノを聴いて八日が経っていた。今日も私は化学のプリントに意味のない落書きをしていると、下校時間の三十分前になった。あの日から放課後、三階に下りるときには注意深く耳をそばだてたが、校舎は静けさに支配されていた。矢田結衣は今日はピアノを弾いているだろうか。私は淡い期待を胸に階段を下りる。そしてかすかに聞こえる、音楽に私は興奮した。残響が消えると、私は音楽室に顔を出した。 「こんばんは」  私は何と言っていいかわからず、とりあえず挨拶をしてみた。矢田結衣が音楽室のグランドピアノの前に明りも点けず、座っていた。 「また来ると思った」  彼女は鍵盤のひとつを押した。ポーンという音だけが音楽室に響く。その音は物寂し気に聴こえた。彼女の視線は濃い色のついた眼鏡のせいで、どこに向けられているか、私にはわからない。言葉を探しあぐねていると、矢田は集中するように音楽を奏で始めた。儚い音色など忘れさせるほどに、エネルギッシュに。  音楽の始まりは湖の水面に手をゆっくりと入れたときできるような波紋からだった。これから何を奏でられるかわからない、底知れない短いフレーズが奏でられる。胸騒ぎを覚えながら低音から高音へと移動し、音は力強く私の鼓膜を叩く。柔らかく温かな音が来たと思ったら、次は突き落とすかのような危険な音色に私は引き裂かれる。私は分裂する音に戸惑いならがも、惹かれ、いつの間にか解体された音は融合している。この曲には多くのことが起こりすぎている。     
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