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まるで森に迷い込んだみたいだ、と私は思った。目の前で蝶が優雅に飛んでいると思ったら、蜘蛛の巣に絡めとられる。その横では美しい花が悠然と咲き、そして木から静かに木の実が落ちる。森は音楽のなかに存在している。矢田が弾いている音楽は生き物そのものだと感じた。
興奮は極致に至り、鼓動が早まる。はやる気持ちを抑えるように、堂々と音楽は鳴り渡る。美しく華やかな響き。そして最初のフレーズが奏でられると、静かにその曲は終わった。まるで森が、音楽が、死ぬように。
私は思わず拍手をした。八日前に初めて聴いた「熱情」が最初から最後まで聴けたのだから、感動もひとしおだ。
「良かった」
そんな私を見て、矢田結衣は綺麗な白い歯を見せて、初めて私の前で笑ってみせた。先ほどまでの張りつめた演奏からは想像できない、女子高生らしい笑み。私はその笑顔に親しみを覚えた。私と変わらないじゃないか、と。
「私、市野川茜。茜でいいよ」
「矢田結衣」
私が言うと、彼女は手を出してきた。握手かな、と私が戸惑うと矢田結衣は口角を歪ませて笑った。
「演奏料」
「お金をとるの?」
「っていうのは冗談で、私に勉強を教えてくれない? タイが赤っていうことは特進科の生徒でしょう? 茜さん」
「茜だけで、いい」
「よろしく、茜。私も結衣でいいよ」
「……よろしく、結衣」
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