第3章

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第3章

  冷めたコーヒーをひとくち飲んで、企画書を見つめる。 「お疲れ様です。明日の取材の資料ですか?」  隣のデスクの森田が出先から戻ってきたようで、重そうなバッグを机の上に置いた。そして森田はスプリングコートを脱いで、スカートの裾を揺らす。 「うん。森田はどうだった? あの難しい女優さんの取材だったんでしょう?」 「それがですね……」  自分から聞いておいて失礼だとはわかっていたが、森田の言葉は耳からこぼれ、私は話を聞いていない。私は森田のくちびるを見つめ、よくそこまで口が動くな、と思った。 「茜先輩! 聞いています?」 「森田って口紅はどこのブランドを使っているの?」 「先輩、どうしたんですか。最近なんか変ですよ?」 「気のせいだよ」  私はそう言ってさっき見つめていた書類に目をやった。添付されている一枚の写真。私は二週間、この写真を穴があくほど見つめた。長い黒髪に凛々しい横顔が写っている。 「明日は『今月の注目のひと』の取材なんですね。ピアニストでしたっけ? 矢田結衣さんって。すごく美人なのになあ、もったいない」  明日、私は九年ぶりに結衣に会う。同じ制服を着て、リボンタイを結んでいた女子高生としてではなく、有名実力派ピアニストと雑誌編集者として。 「もったいないなんて言わないの。誰も好きで斜視になるわけじゃないんだから」 「すみません、軽率でした」 「以後、気をつけて。今日はもう上がるわ」 「軽率ついでに、もうひとつお願いしたいことがあるんですが」 「悪い予感しかしないんだけど」  反省していないなと感じ、あしらおうと思ったが、コートの裾を掴まれ、私は森田の言葉に耳を貸すしかなかった。 「大瀬さんに合コンのセッティングを頼んでください!」 「頼んでみるけど、期待はしないで。それじゃ、お疲れ」  お疲れ様です、という森田の甘い声が背後から聞こえた。給湯室に寄ってマグカップを洗い終わると、仕事モードだった自分からオフの私になる。 「おかえり」  私は無言で部屋の鍵を開けると、啓一は台所に立って私を迎えてくれた。換気扇が回っているが、啓一の好きなペペロンチーノの、ニンニクと油のにおいが鼻についた。  私は靴を脱ぎながら、ただいま、と言おうとした。私の帰る場所はここではない。そんな馬鹿げた考えが浮かぶ。仕事も順調で、恋人である大瀬啓一は料理をして私の帰りを待ってくれている。健康だし、休日の予定はいつも埋まっている。でもどうしてこんなに自分が不幸だと感じるのだろうか。虚しい生き方をしていると思うのだろうか。私は玄関にうずくまり、嗚咽した。 「なになに? 茜、どうしたん?」 「ごめん。仕事で疲れているだけ」 「嘘つけ、何があったんだよ。話せ」  啓一はエプロンを取って、しゃがみ込み、私の眼を見つめた。啓一の澄んだ瞳には嘘をつけない。いつも私を見抜き、愛おしむ啓一の視線に私は歯向かうことはできないのだ。  結衣が去ってからの高校時代のことは、思い出す必要もない。覚えているのは、私を取り巻くすべての人間を見返そうと、意地になってただひたすら死ぬ気で勉強をしたことだけ。教師もクラスメイトも両親も成績さえ良ければ、何も言い出さなかった。数字でしかひとを測れない高校の人間を見下し、数字によって得られる力を私は手にした。しかしそんな権力など無意味と早々にわかり、うなぎのぼりに上がる成績と比例する虚しさを抱いて、私は有名大学に受かり、高校を卒業した。卒業と同時にひとり暮らしを始めると、大学は単位を落とさない程度にバイトと遊びに費やした。乾き果てた日常を紛らわすように、夜遊びに興じ、それでも朝を迎えてしまえば、また虚ろな一日が始まることを嘆いた。  不真面目な学生だった私が、大手出版社に就職できたのは奇跡だと思った。四年間、遊ぶだけ遊んだのだから、仕事は手堅くやろうと決心した。愛人に走った父に学費を返還して、縁を早々と切りたかった。そんなふうに考えていた入社式のとき、隣に座ったのが大瀬啓一だった。同期が緊張した面持ちで式に参加している最中、大瀬は肘で私をつついた。そして気づかれないようにあめ玉を取り出し、私の上着のポケットにそれを入れた。 「食べて」  そう大瀬が小声で言うと、壇上にいた会社の重役が降りると、素早く包みをはがし、あめ玉を口に入れた。その仕草があまりに手慣れていたので、私は呆気にとられ、そして笑いをこらえるのが大変だった。大瀬はおおらかで誰からも信頼される社交的なタイプだ。会社でもその性格が遺憾なく発揮され出世街道を進んでいる。大瀬がなぜ私を恋愛の相手として選んだのかは定かではない。私は二十三歳のとき、最初の大瀬の告白を断った。大瀬にはもっと素敵な女性が似合うと思ったからだ。私は卑屈で、可愛げがない。それでも大瀬はしつこいくらいに、愛の言葉を私に浴びせた。それならば私の本質を見せつけて幻滅してくれればいいと思った。私はいつまで経っても、十六歳の小さく無力な女の子のままということを。啓一は今のところ私を見下げ果てていない、今のところは。啓一との付き合いは今年で二年になる。私たちの生活は金銭的にも、時間的にも、決して余裕があるとは言えない。それでも互いを思いやる気持ちを持てば、何とかやっていけるのだと私は知った。ここ一年、私は居心地の良い啓一の部屋から仕事に行っている。これが世に言う同棲というものか、と冷静に考えていた。たまにささいな喧嘩、夕食当番を忘れた、などで自分の部屋に帰るが、ほとぼりが冷めると啓一の元に戻る。まるで猫みたいだな、と笑って、私を再び啓一は迎え入れるのだ。  私の結衣へのもつれた感情は、とうに友愛とは言えないものになっている。どれほど結衣を愛しているか、去って行ったことを憎んでいるか。そして幼い自分自身を呪っているか。私の結衣への想いは誰にわかりはしない。きっと結衣でさえも。根腐れを起こした感情は、呪いのように私を縛りつけ、身動きを取れなくさせる。結衣と一緒にいた日々だけが、私は生きているという実感があった。呼吸ができていると思った。私の世界にはもう音楽は響きわたらない。  結衣のことを話すのは、啓一が初めてだった。私の泣き声の混じる言葉に、ひとつひとつに啓一は頷いた。私が話し終ると、髪の毛をぐちゃぐちゃになるまで撫ぜた。 「問題は茜がどうしたいかだよ」  啓一は私を射抜くように見つめ、そして私を抱きしめた。私はどうしたいのだろうか、と心の中で自分に問うた。結衣のことを想うだけで、こんなにも身を切られる。結衣の存在は、大切や特別なんていうありきたりな言葉では表せない。言葉で表せないのだから、どんな行動をとるべきかなんて、私には想像できなかった。 「でも妬けるな。茜がそんなに想っているひとがいるなんて」 「啓一のことも好きだよ。好きの意味は全然、違うけれど」 「ひとつだけ聞きたいことがあるんだ。俺との結婚を渋るのはそのひとのため?」  私は首を横に振った。しかし本当は縦にも振りたかった。結衣の不在は私に大きな影を落としている。そしてその影が薄くなっていくのを、月日が経つにつれ、実感せざるをえなかった。まるで傷が癒えていくように。何もなかったように。それが私にはいちばん怖かった。結衣がいなかったことになってしまうのではないかと。啓一のことは愛している。それでも私は啓一に対して一線を引いている。傷つくのが怖いから。そしてその傷がいつか癒えてしまうことが怖いから。ひとを好きになりすぎないこと。それが結衣と別れて学んだ大事なことだった。 「明日、会えるっていうのはめぐり合わせだよ。納得がいくまで、ぶつかってきな」  ベッドに横になっている私に、啓一はそう言った。私は啓一の手を握ると、握り返され安心する。私と啓一の間には、やわらかいクッションのような、愛が横たわっている。そして私はそれを抱きしめて眠った。 「ちゃんと帰って来いよ」  フルメイクにお気に入りのスーツを着た私に、啓一は曖昧に笑ってみせた。私は啓一の言葉の意味を理解できず、首を傾げた。どういう意味か、と問おうと思ったが、啓一はそれを許さなかった。気をつけて行ってらっしゃい、と啓一は言い、そして私は行ってきますと言って、ドアを閉めた。  電車のなかで穴が開くほど読んでヨレた原稿に、ふたたび目を通した。矢田結衣は十六歳で渡独し、有名なコンクールに十八歳で入賞。それからもキャリアを順調に積み、来年は自身が受賞したコンクールの審査員を務めるということで、再び各メディアで注目されている。独身。現在オーストリア・ウィーンを拠点とし、年に百回以上のコンサートをこなす。  結衣が遠い。私はそう思った。結衣の横顔の写真からは十六歳のころのあどけなさも、傲慢さも消え去り、綺麗なリボンでパッケージングされた女性が写っていた。私は結衣にピアノコンクールの審査員を務めること。今度あるコンサートのこと、私生活のことについて聞かなければならない。目的の駅に着くアナウンスが流れると、私は書類をバッグに入れ、大きく深呼吸をした。  今日の取材はホテルの一室で行われる。カメラマンには結衣を正面から決して撮らないようにと念を押した。「今月の注目のひと」のインタビューは、紙面は一ページの予定で、大がかりな特集ではない。息のあったカメラマンとヘアメイクアップアーティストと私だけ。ヘアメイクさんに今日は落ち着きがないですね、と言われたが、私はあやふやな相づちを打つことしかできなかった。  ドアノブが回る音で、私の身体はしゃちほこ張った。おはようございます、と反射的に声が出た。 「おはようございます」  羽毛のような柔らかな声で結衣は言った。結衣は大きなサングラスをかけ、長い髪を無造作にまとめて、カジュアルな恰好をしていた。ヘアメイクさんに導かれ、私の視界から結衣がいなくなると、私は動揺した。感動的な再会を夢見ていたわけではないけれど、何かのリアクションが欲しかった。結衣の無反応は意図的なものか、そうではないのか。それとも私のことなど、とうに忘れてしまっているのか。  私は結衣の前に座り、彼女の顔を一瞬、見つめた。左目は確かに斜視だった。しかし私が目を奪われたのは、色素の薄い赤茶色の虹彩だった。綺麗だ、という言葉を思わず口にしそうだ。結衣は私の視線に気づいてか、目線を下に落とす。長いまつ毛が顔に影をつくり、ミステリアスな、そして上品なピアニストという印象を与えた。結衣は気品のある女性になったのだと、思い知らされる。  対面で私がインタビューをしている最中、結衣はしごく落ち着いていた。私との過去のことなどまるで意に介さないように、淡々と準備された今後のスケジュールについて話し、慣れた口調で私の質問に答えた。 「音楽家としてじゅうぶんに成功されている矢田さんですが、それでもまだ目標があるんですか?」 「はい。ベートーヴェンのピアノソナタをすべて収録したいですね。最近、日本人初のピアニスト、クノヒサの演奏を聴く機会に恵まれて、より一層、ピアノソナタへの捨てがたい感情を抱きました」  私は結衣に二回目に会ったときに聴いた「熱情」を思い出した。あの圧倒的な音の洪水。高校時代、結衣はベートーヴェンのソナタが好きで、「熱情」以外も私の前でよく弾いていた。「月光」、「悲愴」、「テンペスト」に「ワルトシュタイン」。そして最後に私に乞われて、「熱情」の第一楽章を弾いた。  私は結衣のCDをすべて持っている。しかし一回も聴くことなく、ベッドの下にしまってある。怖いからだ。結衣のピアノは私にとって魔法で毒薬だ。聴けば死んでしまうかもしれない、と初めてCDを買った十八歳のときに真剣に思っていたし、今も思っている。 「体力的にも、精神的にも大変だと思われますが、矢田さんのソナタ全収録を望んでいる方は多いでしょうね。私も楽しみにしています」 「ありがとうございます」  私は常套句の謝意を結衣に言われると、ICレコーダーの録音ボタンをオフにした。すべては九年前に終わっていたのだ。私はそう思い知らされた。 「本日はお忙しいところ、ありがとうございました」  私は結衣に笑ってみせた。目の前にいるひとが私の知っている結衣ではない、と思えば簡単なことだった。そして結衣も口元を綻ばせ、席を立った。  大人になるということは、こういうことかもしれない。過去を水に流し、何事もなかったように振る舞うこと。でも結衣が私を忘れたとしても、大人になったとしても、私は決して、死ぬまであの頃の結衣を忘れないだろう。結衣は私の光だ。 「あの」  結衣にかけるべき正しい言葉を見つけようと、私は口を開いた。感謝も詫びいる言葉も私のくちびるは拒否する。 「この部屋は泊まれるように手配しております。よろしかったらお使いください」  編集者としての言葉は軽やかに出てくるのにな、と私は心のなかで自嘲する。結衣はすでにサングラスをかけていた。そして口角を上げて、短くありがとう、と言った。スタッフと挨拶を交わして、私は部屋を出た。そう、私の手によって扉は閉められた。  結衣にインタビューをすると決まって二週間、私は自分に緊張を強いていた。身体から力が抜け、心が緩んだ。そうすると自然と泣きそうになる。力が入らない身体で、ホテルの一階まで降り、パウダールームで化粧を直しながら考えた。  普通に振るまえたよ、と啓一に報告しよう。今日はもう外での仕事もない。インタビューが思いのほか早く終わったので、ラウンジで何かを飲みながら、取材の内容をまとめてしまおう。それで昨日の夕飯は私が台無しにしたから、啓一の好きな四川料理でも食べに行かないかと誘おう。  こうして鮮烈な感情は日常に埋もれていく。今日、結衣に会えて良かった。私はもう見捨てられた十六歳の少女ではない、と結衣の沈黙を解釈して、トイレを出てラウンジに向かう。  ウエイターに席を案内され、身体が心地よく沈むソファ席に座ると、疲労を一気に感じ、私の身体は石のように動かなくなった。それでも意識は昂っていて、私は少しでも神経を休めようと目を閉じた。編集の仕事は忙しく身体を壊す同僚も多くいる。ひとときでも自分の身体を労わらなければいけない。  コーヒーとミルクの香りが鼻先をかすめると私は目を開けた。カプチーノをひと口飲むと、さっきのインタビューを収録したICレコーダーをバッグの中から取り出した。文字起こしを頼む前の確認をしておきたかった。私はところどころ早送りをしながら、冷静に、事務的に、結衣の声を聴いた。  日本人初のピアニスト、クノヒサ。初めて聞く名前だったので、クノについて少し調べてみようと、私はスマートフォンを取り出した。そして調べれば調べるほど、私は血の気が引いった。  私はテーブルに広げていた持ち物を無造作にバッグに放りこみ、トレンチコートを掴んで、会計にとられる時間すら惜しいと思い、千円札を置いてラウンジを出た。 「つい先ほどチェックアウトされました」  私はホテルのフロントで、取材で使った部屋の状態を知ると、絶望的な気持ちになった。結衣に繋がる糸が切れてしまったと思ったが、考え直した。このままでは終わらせない。  受付に短く挨拶をして、私はホテルを出た。結衣はタクシーに乗ったかもしれないが、駅に向かえば、結衣に会える。祈るような、願うような気持ちで私は高いヒールで、ホテルのロビーを駆け抜けた。  日本初のピアニスト、久野久。久野久は少女期に転倒し、片足に障碍を負う。必死で音楽のレッスンをし、日本でも認められるピアニストとなって渡欧。しかしカルチャー・ギャップやクラシック音楽の本場で体験した挫折。それを苦にか、ウィーンのホテルから身を投げ亡くなる。そんなことがネットには大まかに書かれていた。  私は結衣と久野の奇妙な共通点に驚き、結衣が自死を選ぶのではないか、という不安が雲のように私の心を覆った。なにより今日は四月二十日で、久野久が亡くなった日だということが、私を煽りたてる。  脱げそうになる靴と重いバッグ、邪魔な上着、そして汗ばむ肌に嫌気がさすころ、駅前のスクランブル交差点に着いた。信号は赤になり、私は焦燥感でいっぱいになりながらも、信号待ちをしなくてはいけなかった。そしてひとだかりのなかで私は息を整える。  黒い髪をなびかせて、赤信号なのに横断歩道を渡ろうとする結衣の姿が目に入った。私は急いで、結衣のところへ行こうと、ひとごみを分けた。クラクションが結衣に向けて鳴ると、私は結衣の手首を掴んで、歩道に戻した。  結衣は驚いたように私の方へ振り返った。そして私の掴んだ手首を振りほどこうと、身を捩ってみせる。私は絶対に手を離さない、もう二度と。そして無理やり結衣の身体を抱きしめた。 「会いたかった」  その言葉は私が伝えたい結衣への想いはすべてだ。会いたかった。会って、自分に起きたことをすべて伝えたかった。そして結衣のことを聞きたかった。私も何かあるたびに、心のなかの結衣に問いかけて、答えが返ってこないことに落胆した。そしていつからか落ち込むことが当たり前の日々を、軽蔑していた。  結衣の身体はその場に崩れ落ちるように、しゃがみ込んだ。私も一緒に屈み、それでも抱擁を解こうとは思わなかった。そして結衣はサングラスを乱暴に外し、ピアノに捧げた手で私の顔を包んだ。セピア色の眼が私を見つめる。聞きたいことが、山ほどある。しかし言葉は出てこなかった。 「私も」  ベートーヴェンの「熱情」が聴こえる。結衣が弾いていた、あのソナタが耳に響いている。結衣は生きて、ここにいるのだ。それだけで私の世界は音楽にあふれる。結衣の鼓動が腕のなかに広がる。九年という長い時間を埋めるように、私の身体に響きわたる。私は結衣のいなかった、死んだような九年間が頭のなかをかけめぐる。不在の歳月を埋めるように固く、強く、結衣を抱きしめ、抱きしめられた。ふと、ちゃんと帰ってこいよ、という啓一の言葉を思い出した。ごめんなさい。私はとうぶん帰れそうにありません。
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