思い出は、そっと心に。

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「先輩、遅いっすよ!」 …案の定、後輩に叱られてしまった。 「悪い。なんか、土壇場で寂しくなってさ。思い出の道を歩いてきた。」 「なーに言ってるんですか!寂しいもなにも、同じ町内じゃないですか!」 大笑いを始めた後輩に、 「…あるんだよ。寮暮らしには分からない、感慨深さってもんがさ。」 …などといってみせた。 新居は一戸建て。 これまで不便だと感じていたものは、この新居には何もない。 少なかった収納スペースも、2階建ての至るところに設けてある。 狭さを感じた風呂、トイレ。 風呂は思いっきり足を伸ばして入れるし、トイレで新聞だって広げて読める。 そして何より………… 「……おかえりなさい。」 寂しかったアパート暮らし。 新居ではもう、寂しくない。 「待たせてごめんな。」 「10年も住んでたんだもんね。思い出、ちゃんと持ってきた?」 自分の都合で大分待たせてしまった相手は、そんな俺の都合も理解してくれていて。 「あ……それ。」 相手が、俺の持っていた小さな包みを見て笑う。 「これは……捨てられないだろ、いつまでも。」 少しだけ照れ臭そうに答える俺に、相手は小さな宝箱のような小箱を見せる。 「私も、持ってきた。今度はふたりで保管しよう。」 その中には、手紙の束があった。 俺は今年この女性と結婚した。 文通相手だった彼女と再会したのは、大学を卒業してから。 ふと、思い立って手紙を出したら、奇跡的に返事が届いた。 どちらも、引っ越していなかったのだ。 それからやりとりを繰り返し、数年越しの文通で、初めて俺達は出会い… お互いに想像通りだったのもあり、またお互いの事をさんざん手紙で語っていたこともあって、ふたりの距離が近づくのは難しくはなかった。 こうして、交際は始まり…… 去年の冬に、俺は彼女にプロポーズをした。 お互い、言葉はもう必要なかった。 青春時代から、大切なことはずっと手紙にしたためてきたのだから。
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