喫茶ロマン

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喫茶ロマン

 殺し屋Kは煙を吐き出した。    短くなったたばこをガラス灰皿にねじ込んだ。  冗談じゃない!  この俺様としたことが狙った獲物を外すとは。  殺し屋稼業、始めて以来の大失態にKは少々狼狽えていた。  だが、この依頼、そもそも最初から何かが変だった。  事の発端は二週間前に遡る。 「それで、洗うのはこの婆さんか?」  新宿三丁目にあるロマンという名の喫茶店。  ヤニ臭さが漂う喫茶店は、サラリーマンで賑わう立地ありながらまるでエアポケットにはまってしまったかのように人目につかなかった。 「ええそう。高輪のお屋敷に一人で住んでいる」  依頼人の女が言った。  Kはもらった写真に視線を落とす。  水玉模様のてらてらのワンピを着た老女が、花壇に水やりをしている姿が写っていた。 「婆さん幾つだ? ざっと見たところ百歳前後と言ったところか?」 「ええそうね。たぶん百は越えているわね」  女のとどくどくしいまでの赤いルージュが、微笑を浮かべた。  依頼主の女は別の写真を差し出した。 「実は、犬一匹がいるの。この犬も洗ってもらえるかしら」  吹き出しそうなくらいヨボヨボの犬。  殺すまでもない。  一人と一匹は黙っていても今にも死にそうだった──。 「クリーニング代なんだけど──。前金で一千万。死んだら残り九千万。──これでどうかしら」    へっ?  こんな婆ぁさん一人殺めるのに一億円もの大金、かける必要があるのか? だとしたら相当の金持ちか、相当の曰く付きだ。 「金額は相場の倍。これって婆さんに訳ありか?」   「じゃなきゃ、こんな大金叩かないわよ」  たしかにそんな、依頼ばかりがKの元に舞い込むのも事実。 「俺の腕を買ってもらえるとはありげてえ話。婆さんの日常やらをここに書き出してもらえるか?」  Kはテーブルにシートとボールペンを置いた。  それにしても、向かいに座る女は香水の香りがきつすぎた。Kは甘ったるい臭いにむせそ返りそうになった。   女は慣れた様子でペンを走らせる。  Kはぼんやりとペン先を眺めながら、タバコに火をつけた。  厨房から黒い前掛けを締めた店主が顔を出した。  もうそんな時間か──  店主はカウンターに置いてあるリモコンを持つと、テレビの音量をMAXに上げた。  生ビールのCMの後、競馬中継が始まった。  興奮した女性レポーターの甲高い声が響いた。  女は顔を上げ、うるさいとばかりに店主をにらみつけた。  ボールペンを口の端にくわえ、イライラとした様子で人差し指をトントンとテーブルに打ち付けた。  そのたびに大きくとぐろ巻いていた黒髪が揺れる。  頭部にちょこんと乗せた小さな黒帽子も、顔を隠しす黒いレースも異質。葬式でもあるまいに喪服を着ている。たとえ葬式帰りだったとしても、女の顔はやばいほどにケバイいのだ。  これって、どこかで見たような──  そーだ。   ブルースウィルスの映画……  正確に言えばブルースじゃなく女優の方──  メリルストリープじゃないほう──  えーとえーと名前は……  ゴール──  そう、   ゴールデンホーンだ!  目の前の女はまんま和製ゴールデンホーン。  まんまハリウッド映画!  思い出したことにKはことさら満足した。  パンパカパーンとファンファーレ──  本日のメインレース。  G1山仲金杯が始まった。  店主が身を乗り出す。  Kもテレビをそれとなく観る。  この時間は都合が良かった。  理由は店主の耳が遠いいから。したがって誰かに会話を聞かれる心配がない。  レースは第二コーナーから飛び出した一頭が、逃げる展開だ。 『先頭を走るは若き騎手小竹とセイコウホマレ。続いて十馬身差でブラックヨシカワが──』  アナウンサーの実況に歓声が交じる。    第三コーナーにさしかかる。逃げる一頭を残りの十五頭が塊りとなって追随する。  マジか?  このままいけば当たる。  が、こんな長い距離を逃げ切れるわけもないとも思う。 第コーナーを回った直線。セイコウホマレは急ブレーキがかかったように失速。 皆の夢を乗せた、ぐりぐりの一番人気の馬が、無惨に馬郡に消えてゆくのが見えた。 ──ああ やっぱりね。 人気絶頂の若い騎手小竹。 かかった馬の勢いを止められなかった。 自分が買うときに限って奴は裏切る。 Kは依頼人の手前、悪態を飲み込んだ。   どーせ明日一番の朝刊で奴は叩かれるさ。 「できたわ。これでどうかしら」  女は書いたシートをKに手渡した。  Kは目を通す。  老婆の日常がこと細かく記されていた。 「完璧だ。数日のうちに朗報が届くだろうよ」 「分かっているでしょうけど、クリーニング失敗は許しませんから、そのつもりで。その時は死を持って詫びてちょうだい」  はっ!  なんだと?  この女、いったい俺様を誰だと思っている。  俺は伝説。  この俺様こそが唯一無二のヒットマンなんだ! 「安心して沙汰を待ってくれ。これまで、俺に落とせなかったシミはねえんだからよ。仕上げの良さに、きっとご満足していただけるだろうよ」 「それならなら安心ね。今夜から枕を高くして眠れそう」  たとえ失敗しても依頼主の女を殺ればいいのだ。 こんな女一人どってことない。 ましてや吹けば死にそうな年寄りなど 失敗するわけがないのだ。    二週間後。想定外の事態がまさか殺し屋Kの身に降りかかるとは、この時点では知るよしもなかった。                        
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