【一章】三田優:②

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 三田が男と出会ったのは一ヶ月前まで遡る。まだ蝉が最期の一声を絞り出さんと精を出し、夏は終わらせないと訴えているかのような、残暑の厳しい夜だった。  三田は廃ビルの屋上でぼんやりと空を眺めていた。このビルは三年ほど前に最後のテナントが店を閉じ、七階建てのオブジェとなっている。この周辺は似たような廃ビルが立ち並び、夜になると薄気味悪さが際立つため、人はほとんど寄ってこない。床のアスファルトはまだ昼間の熱気が残っているのか生温かったが、お構いなしに直接座り込んだ。三田が見上げる夜空は自身の心を表しているかのように、黒く沈んでいる。  腕時計を覗くと、時刻は午後十時を過ぎたところだ。三田はよし、と太腿を叩き、勢いよく立ち上がると、そのまま屋上の端までゆっくりと歩いていった。  屋上は転落防止用に防護柵が立てられているが、腰の高さくらいまでしかなく、勢い余って落ちることしか想定されていないのが明らかだった。だからこそ、三田はこのビルの屋上を選んだ。  三田は柵を跨ぎ、縁の部位に立つ。命綱も何も無い。少しでもバランスを崩せばそのまま地上のアスファルトにダイブすることとなる縁の上で、三田は一つ深呼吸をした。自分の身体が少し軽くなったような感覚になる。ひゅうひゅうと音をたてて通り抜ける風に煽られてそのまま飛んでしまいそうだ。  三田は最期に亡くした恋人のことを思い出した。遺書は自室のアパートに置いた。この場所は人気の無い路地裏に面しており、人様の迷惑になることはない。  さあ恭香。もうすぐ君の所へ行けるよ――。  目をつぶると、柵から手を離し、全身の力を脱した。そのまま重心を前に倒した時、突如緊張が奔った。それが緊張ではなく、恐怖であることに気付く間もなく、三田は後ろの柵に手を伸ばそうとした。その瞬間、後方から自重以外の力が加わり、勢いよく引き戻された。襟首を引っ張られ、背中を柵に強打する。そのまま柵を支点に半回転し、柵の内側に倒れ込む。三田自身は、一瞬のことで何が起きたのか全く理解できなかった。襟首によって締め付けられていた喉がようやく解放され、ごほごほと咽ぶ。 「お兄さん、何やってんの?」
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