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樋口がその部屋に踏み込んだとき、室内はすでにもぬけの殻だった。
息を殺して耳を澄ましながら生活感のないキッチンを抜け、磨ガラスの張られた引き戸を引いて、樋口は目を見張らせた。
赤黒い飛沫が、中央に置かれたテーブルから部屋の隅に置かれたベッド、白い壁紙にまで飛び散っていた。二人掛けのソファの正面に回り込むと、座面は赤黒く変色した血液でべっとりと濡れていた。既に乾いていはいるものの、時間はそう経っていないように思われる。
「被害者の姿が見当たりませんね……」
「死んだと決まったわけではない」
同行していた青嶋がぽつりと呟く。言葉の最後を樋口が遮った。
捜索願いが出された少女??朝比奈菜緒の姿を探そうにも、部屋の中に人間が隠れられる場所などどこにもない。浴室もトイレも驚くほど綺麗なままで、つい最近まで人が住んでいたとは思えないほどだった。
――彼の妙に几帳面な性格が顕著に現れている。
樋口は思った。
この部屋の住人を樋口は知っていた。
彼は掴みどころがなく、何を考えているかわからない男だった。だが、樋口は彼を嫌いではなかった。
学生時代の彼を知っている樋口には、この連続猟奇殺人の犯人が彼であると容易に信じられなかった。それゆえに、容疑者として彼の名前が挙がったとき、樋口自身がこの事件の捜査に携わることを決めた。
朝比奈菜緒が最後に携帯を使ったのはこの部屋だとわかっている。それほど時間が経過しているわけでもない。それならば、彼と彼女はどこに姿を消したのか。ソファに残された血痕は誰のものなのか。
樋口は苛立ちを腹に抱えたまま、鑑識の到着を待つことにした。
ふとテレビ台に目を向けると、シンプルなデザインのフォトフレームが目に入った。飾られた写真に写っていたのは、学生時代の彼と、当時の彼の恋人だった。
眩い陽の光を浴びながら、これ以上ないほど幸せな笑顔を浮かべるふたりの姿を見て、樋口は悲痛な思いで唇を噛み締めた。
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