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「針が降る前とえらい違いだ」
顔見知りが傘の下でそう呟いて通り過ぎた。
「死にたいのかい君は」
眉間に深く皺が刻まれた紳士が傘の下で
悪態ついて通り過ぎた。
そんな皆の顔色が傘に隠れ、なんだかそれが滑稽で、笑ってしまう。
いつになく皆を慈悲深く見守る私がいた。
すこぶる気分がいいこの時間。ずっと針が落ちてくれたらいいのに。
なんてことあるわけないとしっている。
遠くのほうはソーダ味のアイスみたいな空が広がっていた。
私は固まってその場に立ち尽くす。
頭上を見上げる。か細い針の勢いがなくなっている。
私の歯はガチガチと震えだし、私の足は足早になっていく。
ピンと伸ばした背中は丸まり、さっきまで前を向いて歩いていた顔は俯いて、潰れた針の残骸を見る。
ちらほら傘を畳む者が現れた。
先駆者の彼ら彼女らが無事だとわかると、皆傘を畳んで顔を上げて、やがて前を向いて歩き始めた。
再び私の心にはどんよりとした気持ちが内に溢れたくる。
すべてがうまくいきっこない。皆刺された私を見て可笑しそうにチラと見ては、みてみぬふりして通り過ぎていく。
ああ、みじめ、
みじめだ。
戻ってきた感情とともに帰路を挙動不審で歩く私。
「あら、あなた随分針に刺されてるじゃない」
高飛車な声がした。
私の目線の先には真っ赤なヒールを履いた細い足が仁王立ちしている。
「関係ないだろ」
ほっといてくれよ。
赤いヒールを一瞥して私は通り過ぎようとした。
赤いヒールは私の腕を掴んだ。
私はぎょっと肩を強張らせる。
そこで私は初めて、ヒールを履いた奴の顔をみた。
「あら、アタシも好きよ、刺されるの」
柔こい針に刺されたヒールの奴が、唇の脇を引きつらせ笑ってそう言った。
出会ってしまった赤いヒール。
その姿に無性に泣きたくなった私は、震える唇で奴にキスをする。
世界は完全に、爽やかなソーダ味のアイスの中だった。
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