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 その夜、僕が帰宅した時には、もうさくらは入浴を済ませたあとだった。長い髪は濡れたままでパーカー一枚とショートパンツという薄着でリビングをウロウロしているので、「早く髪を乾かしなさい」と注意をした。さくらはあからさまに嫌悪を示し、 「ほっといてよ」  と、冷たく言い放った。 「風邪ひくだろう。ちゃんと長いズボン穿きなさい」 「見ないでよ、関係ないじゃん」  見ないでよ、と言われても目の前でウロつかれたのでは視界に入るし、父親だから娘が風邪を引かないように心配するのは当たり前のことであって。ただ、やっぱり嫌われたくないというのが先に立ってしまい、僕はそれ以上何も言えなかった。そうだ、と思い出して、洋菓子店の奥さんからもらった焼き菓子を鞄から取り出した。 「今日、いつも贔屓にしてくれてるお客さんがくれたんだ。一緒に食べないか?」  けれども、さくらは一瞥しただけで無言で自室へ戻った。ソファでドラマを観ているかなえに聞いてみる。 「……かなえ、食べる? 焼き菓子」 「どこの?」 「『ふるーら』」 「あそこの焼き菓子、好きじゃないのよね。いらないわ」  一度も振り返ることがないまま、拒否されてしまった。手の平に乗った焼き菓子が重く感じられた。「家族で食べてね」と言ってくれた奥さんの優しい笑顔を思い出すと、胸が痛い。  フィナンシェひとつ作るのもきっと大変なのに。僕はソファから離れたダイニングテーブルで、ひとり焼き菓子を食べた。こんなことなら、駅前で絵を描いていた青年にあげたほうが、まだよかった。
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