1

12/17
前へ
/134ページ
次へ
 ―――  「川原留衣(かわはらるい)」。それがあの青年の名前らしい。  肩書きはなく、真っ白な名刺の真ん中に名前、右下にパソコンのメールアドレスと、SNSのQRコードが記載されていた。ユーザー登録をすると写真や絵などの投稿ができたり、知り合いとネット上で繋がったり、メッセージの交換をすることができる、というものだ。僕はそのQRコードを読み取ってみたが、ユーザーにしか見られないらしく、記事の投稿を見ることはできない。「川原留衣」本人らしいアイコンの写真は後姿。いつもキャップを被っていて顔を見たことがないから、せめてアイコンででも見られるかと思ったが、それも叶わない。本当にちょっとした興味本位だったのに、見られないとなるとますます見たくなる。ネットで直接検索をかけてみたが、それらしいものは出てこなかった。 「プロではないのかな……」 「え? 課長、何か言いましたか?」  栗田に言われて、サッとスマートフォンを隠して「なんでもない」と咳払いした。まあ、いいか。所詮、たまたま見かけた素人の絵描きだ。明日にはきっともういないはずだ。  けれど「川原留衣」は、翌日もその翌日も駅前の噴水で絵を描いていた。毎日駅に行くわけじゃないが、僕が駅に行った時は大抵、いる。いつも同じウィンドブレーカーとキャップだ。ひとりで景色を描いている時もあれば、通りすがりのモデルを描いていることもある。見本絵でもいいからじっくり見てみたいな、と思うのだけど、描いてもらう気もないのに見るのも悪いし、あまり近付くと怪しまれるので僕はいつも前を通り過ぎるだけだ。時々お客さんと話している時の声を聞いたり、口元だけが見えたりはする。この年頃の男にしてはやや高めでハキハキ喋るということ、薄い唇から見える歯が白くて歯並びが綺麗、ということは分かった。  いつも見かけるのによく知らない。もっと見たいのに見えない。そんなもどかしさが好奇心を掻き立てる。いつしか僕はいつものコーヒーショップのテラス席から絵を描いている「川原留衣」を眺めるのが習慣になっていた。
/134ページ

最初のコメントを投稿しよう!

1224人が本棚に入れています
本棚に追加