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 気持ち良く奥さんの家をあとにして、時間に余裕もあるので僕は駅前のコーヒーショップへ寄った。まだ十一月も初旬なので日中は暖かい。特に今日は見渡す限り快晴で心地が良いので、テラス席で飲むことにする。ガーデンパラソルの下で道行く人を眺めながら飲むコーヒーは格別に美味い。目の前を横切る人間だけでかなりの数だが、誰一人として服装が被らないのが不思議だといつも思う。十人十色とはよく言ったものだ。  仲の良さそうなカップルや家族連れを見ては微笑ましい反面、切なくなる。自分にもあんな頃があったな、とか、もうあの頃には戻れないのだな、とか。  洋菓子店の奥さんは思春期なんて今だけだと言っていたけど、本当にまた笑いかけてくれる日が来るのだろうか。話し掛けても目も合わせない、口を開けば金。かなえはかなえでアナウンサーに復帰することを諦めてから近くの英会話教室で受付の仕事を始め、もう僕には頼らなくなった。家族なのにひとりぼっち。このまま死ぬまで孤独かもしれない……。  ふと視界に飛び込んできたのは、駅前広場の噴水で絵を描いている青年だった。顔はよく見えないが、薄手のウィンドブレーカーに紺色のキャップを被っている。服装が地味なせいか、キャップからはみ出ている赤毛が妙に洒落ている。青年はビニールシートの上であぐらをかき、スケッチブックを片腕に抱えて鉛筆をすべらせている。モデルがいるわけではなさそうだ。道行く人を観察しては、それを絵という形で記憶に留めているのだろうか。景色とスケッチブックを交互に見ながら、雑踏の中で黙々と絵を描いている姿は、なぜだか胸を打たれるものがある。僕はコーヒーを飲むのも忘れて、暫く彼を見ていた。  なぜわざわざあんなところで絵を描くのだろう。流動的な風景の練習、大勢の中で自分だけが違うことをしているという優越感とか、そんな自分を見て欲しいとか。なんにせよ突飛なことをするのは若い頃にありがちだ。僕はそういった揶揄や軽侮をしながらも彼から視線を外すことができなかった。
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