1.「マイルーム」

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1.「マイルーム」

…まぶたがピリピリする。 痛みはないが、目を開けなくてはいけないような気がして男は覚醒する。 予想よりもまぶたは軽く、予想よりも簡単に開いた。 そして、初めて視界に映ったのは…意外にも自分の手の平だった。 「…俺の手か。」 …もちろん、見れば分かることなのだが、それでも男は口に出してそう言った。 手を握り…再び開く、そうして手元を見ていると自然と目下の景色も視界に入ってきた。 整った木目が美しい上質なフローリング。そして、自分の履いている靴。 革製の靴は茶色と黒を織り交ぜたような色合いと光沢のある新品のものであった。 ――――…これは、悪くない。  それから、一通り部屋を見終わった結果、どうやら、ここは自分用の部屋であるようだが、決して「自分が所有している部屋」というわけではない。  玄関からリビングに入ると、右手にバー形式のオープンキッチンがあり、キッチンからは洋風の部屋に相反しているが、決してミスマッチではない畳の空間が見える。畳の空間は足先から膝程の高さがある段差を土台とし、床からは一段上のスペースに広がっていた。 さらには、部屋の隅の壁に配置された大型モニターと目が合う。その画面は無機質ながらも適度な光沢を放っていた。 「…良い部屋だ。」 初めて見る自分がそう感じるのだから、きっと他の誰が見てもそうなのだろう。 しかし、それは誰かに用意された部屋であり、どれも自分の用意したものではない。 「…あとは部屋の外だけか。」  玄関へ戻ると、先程脱いだ革靴が置かれている。 土足で部屋の中にいることに何か悪い気がしたため、先程玄関に並べておいたのだ。 もちろん、その際に入り口の扉に手をかけることもできたのだが、なぜかそうしなかった。本音を言えば、外へ出る勇気がなかっただけなのかもしれない。 しかし、他に調べるところは、ここと「ベランダ」ぐらいしかないのだが…。 「…よし。」 ―――先に「ベランダ」だ。そのあとで玄関を調べればよいだろう…。    初めは開け方が分からなかっため放置していたが、何とかロールスクリーンを上げる。ロールスクリーンの隙間から「ベランダ」のようなものがあることは先程確認していたが、ロールスクリーンを上げたことで明らかになった外界の景色は、何とも「美しいもの」だった。 薄桃色の木々、風に舞う花びら、それを際立たせるように空に浮かぶ太陽。 「…きれいだ。」 つい溜め息交じりに感想の言葉が出てしまったが、「美しいもの」を美しいと感じられる感性を自身が持っていたことに気づく…。 花びらを纏(まと)った風の香り、そして心地よい太陽の薫り。 髪が少し揺さぶられる程度のそよ風、かすかに聞こえる風と木々が奏でる音色…。 視覚、鼻覚、聴覚、触覚で伝わってくる目の前の景色の美しさは本来の目的を忘れさせるほどの衝撃を男に与えた。 …もちろん完全に忘れてしまったわけではないが…。 「しかし‥‥きれいだ。」 男はもうしばらく、その美しい景色に心を奪われることにした。  ベランダはかなり広く、屋根の開閉が自由にできることから「バルコニー」のようなものだった。そして、ご丁寧に寝転がれるような「ラタンビーチチェア」とテーブルのセットもある。 ――――…ここに背中を預けたら、きっと寝てしまうだろう。 …少し惜しみながらも男は、「バルコニー」を後にした。 再びリビングに足を踏み入れた男は外の景色、部屋の外観…と、今までに得た様々な情報から推察する。 どうやら、ここは「マンション」のようだった。 部屋自体が広いため隣の部屋まで距離があったが自室の上下左右にも同じような部屋を確認した。 ―――人の姿は見えなかったが自分以外の「誰か」がいる…。 「…のかもしれない。」 上の階に誰かがいるのなら足音ぐらい聞こえそうなものだが、この「マンション」は防音などの設備がしっかりしているのだろう。 …人の気配を全く感じない。 ―――本当に、ここには自分だけしかいないのだろうか。 「誰か」の存在を認知したからこそ…なのか男は少し孤独を感じ始めていた。その孤独感を忘れるように「バルコニー」に来た本来の目的を思い出す。 「外に出よう…。」 玄関に向かい、並べ置いた革靴に足を滑り込ませる。右足を靴に通そうとすると、壁に掛けられた鏡が視界に入った。 「(俺は…こんな姿だったのか…)」 鏡に映った自分の姿を、まじまじ…と眺めたあとに男は服装を少し整える。 焔(ほむら)のような前髪と尖った耳のように逆立った頭頂の髪、総じて見ると燃え熾った髪型は自身を表す生命の燈火にも見える。 衣服はきっちりと首元までボタンを留めた白いワイシャツを着ており、その首元には紅いリボンが結ばれている。その上にはワインレッドのブレザーを着込んでいる。パンツはブレザーの裏地と似た暗めの紺色、丈(たけ)は踝(くるぶし)よりやや高い位置で止まっているため足首がスッキリしている。 さらにはブレザーの襟が大きめで襟の裏にはホックが付いているため、ホックを外して襟の開閉具合を変えることもできる。 着用者のデザイン性によっては見た目が大きく変化することも特徴的である。 ――――今は…まぁ、これで大丈夫だ。 結局、ホックを外すこともリボンを緩めることもせずに男は玄関の前に立つ。 ゴクリ‥と唾を飲み少し緊張しながらも、ついに男はドアノブに手をかけ扉を開く。 ―――さて、どこに向かおうか。…とりあえずは、このマンションを出て…。 不安を紛らわせるために今後の自分の行動を考えながら男が扉を開け切ると… 「‥わっ!」 ガンッ…という痛々しい衝撃音と同時に悲鳴が響く。 さらには「何か」が扉にぶつかった反動で男は再び玄関に戻されてしまった。 「…なんだ…?」 気付けば玄関に尻もちをついていた。何が起きたのか一瞬わからなかったが、どうやら誰かにぶつかってしまったようだ。 男は再び立ち上がりパンツを払ってから今度はゆっくり…と扉を開ける。 そして、扉の空いた隙間から顔を出すと自分と同じような服装をした女の子がいた。 違い…と言えば首元のリボンは蒼色で、スカートは青めの紺色。茶色基質で少し金色がかった長髪が綺麗な女の子だった。 扉に頭をぶつけてしまったのか頭部を抑えながら痛みに耐えるように床にしゃがみ込んでいた。 「…大丈夫か?」 「…~~~!」 声を掛けるが、彼女は言葉にもならない声を上げている。 ―――どうやら相当痛かったようだ。 「すまない、何か冷やすものは必要か? 確か冷蔵庫に氷があったはずだが…。」 「いいの! だいじょうぶ…大丈夫。」 そう言って彼女は片手で頭部を押さえ、スカートを軽く払いながら立ち上がる。 彼女の立ち姿から身長は男より少しだけ低い程度であることが判明する。 また、彼女が立ち上がった瞬間か…、それともスカートを払った時なのか‥‥心地良い匂いがしたのは男の気のせいだろうか…。 「ごめんね、手間取らせちゃって。」 「気にするな…大きなケガでなくてよかった。」 男が自身の頭を指しながら答えると、彼女は少し恥ずかしそうにしながら笑顔を返す。 彼女を真似て男も笑みを浮かべると、彼女は男に手を差し伸べてきた。 「私、紅葵(もみぎ) 蒼(あおい)…っていうの。あなたは?」 唐突に自己紹介をされて男は少し驚いたが、差し出された手を握り自分も自己紹介をする。 「あぁ、俺は‥‥」 しかし、そこで男の言葉が一時停止すると、同時に思考回路に電流が奔る。 「…?」 なかなか自己紹介をしない男を彼女はじっと見つめていた。時間の経過とともに彼女の表情が困惑さを帯び始めていく…。 ――――…待てよ。 ここに来て男は重要なことに気づく。 おそらく彼女がいなければ、この問題には気づけなかっただろう‥。 マイルームでは、自らの好奇心が赴くままに行動し、調査をしていたが、その過程で必ずモノにはそれぞれの固有名詞があることは理解していたはずだ。 それでも、男が問題に気が付かなかったのは、きっと他への好奇心が自身への興味よりも勝っていたからであろう…。 目の前の彼女に名前がある様に、男にも固有名詞が存在する。しかし、男は自身の固有名詞が分からなかったのだ。 「俺は…一体、誰なんだろう?」 モノには「名」と共に役割があり、現在までの存在に当たる「過程」が必ずしも存在する。 それは人にも言える事であり、どのように生まれ、どのように生き、どうしてここにいるのか‥‥という「過程」。 しかしながら、男は自分は誰なのか、自分はなぜこんな所にいるのか、自分はどんな人物であったか…その全てが不明であり何一つ思い出せない。 男には自身に関する「記憶」と呼べるものがなかったのである…。
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