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4. 「【ML】争奪戦 Ⅰ 」
塩崎が開始の合図をしてから、およそ一時間が過ぎた頃。
【ML(マテリアル)】を探す道中、灰原たちは、幾度か教室へ戻っていく生徒達とすれ違う。
きっと【ML(マテリアル)】を選び終えた生徒たちなのだろう…どこか楽しそうに教室へ戻っていく生徒達の表情を見ていると、胸の内から溢れ出ようとする焦りの念が、じわじわ…と灰原の心を蝕んでいった。
「~♪」
…しかし、そんな灰原の心とは裏腹に鼻歌を歌いながら校内を探索する彼女は、どこか楽しそうにその金色がかった長い茶髪を弾ませていた。
またしても、灰原 熾凛(さかり)は紅葉 蒼(あおい)と行動を共にしていたのである…。
「熾凛。一緒に…マテリアル…だっけ? 探しに行きましょ。」
「自分の【ML】なのだから、蒼は自分の事を優先しても良いんだぞ…?」
塩崎の合図の後、続々と生徒たちが教室から立ち去っていく中、「どこから探しに行こうか…」と思案していた灰原に背後から蒼が誘いの声を掛けてくれた。
だが、彼女の申し出に対し、さすがに申し訳なさを感じた灰原は、そう伝えたのだが…
「色々見ながら適当に探すから大丈夫よ。」
…と答えになっていない返答をされてしまい、結果的に彼女と一緒に【ML】探しをすることになったのである…。
「…蒼(あおい)はどんな【ML(マテリアル)】にするんだ?」
「そうねぇ…。」
あごに軽く握った右手を当てながら考える彼女の姿。
しかし、初めて出会った時に見せた「それ」とは違い、右肘と脇腹で左手を軽く挟み込んでおり、その完成された彼女の考える姿勢は…やはり様になっていた。
「まぁ、パッ…と見て良いな…って思ったものにしようかな。」
…目的もなく、ショッピングモールへ買い物に行くような口ぶりで彼女はそう答えた。
「‥‥そんな無計画に【ML】を選んでしまっていいのだろうか…?」
彼女の意見に疑問を感じた灰原は、素直に疑問に思ったことを蒼に訊ねていた。
【ML】から創造する自身の武器。
その全ての「素材」となる重要アイテム、【ML】が持つ価値を彼女が理解していない…とは到底思えなかったため、灰原は彼女がそう答えた意図を知りたかったのだが…、
「…良いんじゃない?
それにこういうのは、直感で選んだ方が大体良い物になるのよ。」
「‥…そういうものなのか。」
よく分からない定義を述べられたことで灰原は少し戸惑う。
しかしながら、そういう考え方もあるのか…と徐々に彼女の考え方が身の内に浸透していくのを感じた。
――――彼女の持つ楽観的な考え方は自分も見習うべきなのかもしれない…。
真摯に彼女の考え方を受け入れると、未だに【ML】が決まらない事への焦りの念は徐々に薄れていった。
「…じゃあ、今まで見たもので何か良いものはあったか?」
「ん~‥‥特に何も!」
「ふふーん」と言わんばかりに…なぜか自慢気な笑みを浮かべ、腕組みをする彼女は自信たっぷりにそう答えた。
――――俺の尊敬の念を返してはくれまいか…。
灰原は適度に気持ちを切り替えるために溜め息交じりの深呼吸をしていた…。
「マンション」の出入り口から見えた「グラウンド」と、その奥にある二つの建造物。
その一つが「弓道場」であり、「弓道」と呼ばれる武道の一種を行う場所であった。
黒々と鈍い光を放つ瓦で覆われた屋根、木製の引き戸…などを始めとする和風の場内には、木の深みを表現するためなのか…木目の強弱が激しい木材を絶妙な具合に誂(あつら)えた独特の木の空間となっている〈射場〉が広がっている。
開けた〈射場〉から見える〈的場〉には、鈍角な形状で圧縮されながらも、見事に整えられた「垜(あづち)」という土山があり、その足元には円柱の的が等間隔で配置されていた。
〈射場〉と〈的場〉。
その両端に挟まれている〈矢道〉を這うように生えている青々とした芝生と太陽の光が作り出す空間は〈射場〉から眺めると何とも爽快な風景であった…。
もう一つは「文化棟」と呼ばれる白い外壁に覆われた建造物…なのだが、その形状は何と表現したものか…。
上から見ればV字型の建造物は、まるで一冊の本を真ん中のページで開き、「背表紙」を「グラウンド」側に向けて、立たせたような構造をしている。
単なる入り口だけではなく、V字型に開いた「左翼」と「右翼」の両翼への中間経路としての役割を兼ねている「背表紙」部分の形状は、二階建てである両翼よりも一階層高い…という事もあり、見る角度によっては本に挟まれている栞(しおり)のようにも見える。
蒼が言うには、「演劇」、「吹奏楽」、「茶道」…といった文化系の〈部活動〉を行う場所らしい…。
「‥‥まぁ、こんなに立派なのは…初めて見たんだけど‥‥。」
「文化棟」の「背表紙」部分の入り口から中央にある大型エレベーターを通り過ぎると、入り口から真正面にある黒革の大扉が視界に入り、気になった灰原が少し重い大扉を開けると、地下に向かって広がる〈劇場〉が二人の目下に待ち受けていたのである。
「‥‥こんなにも豪華なのだな…。」
「普通はもっと…こじんまりしてるものだから…。」
そう言いながら、手招きをする蒼について行くと、彼女が観客席に座り込んだため、灰原もそれに倣(なら)って蒼の隣の席に座ることにした。
「「ふぅ~。」」
【ML】探索から一時間半ほど歩き続けた二人の身体は休息を求めていたようで、二人は〈劇場〉に並ぶ観客席に身体を沈めた途端に溜め息をついてしまう。
そのまま天井を眺めていると、前方の〈ステージ〉から、ウィーン‥という機械音が流れてきたので視線を送ると、一人の男子生徒が〈ステージ〉のボタンに触れたらしく、〈ステージ〉の床から大きく黒い楽器が出現する。
まるで「待っていたぞ…」とでも言いたげな黒楽器の登場シーンを見た灰原は、少しだけ可笑しく感じ、軽く鼻で笑ってしまう…。
【ML】探しが目的の校内探索であったが、探索を進めるうちに、校内にある施設へと興味が向き始めていた灰原は、彼女に一つ質問をする事にした。
「…そういえば、「マンション」を出てから気になっていたのだが…。蒼にとっては、この校内にある施設は全体的にこう…どう見えるのだろうか。」
「マンション」、「第一校舎」‥と二人で様々な施設を見てきたが、それらに対して蒼は「すごい」、「立派」、「普通は…」…といった自身の記憶にあるものより上位にあるものに向けた言葉や反応を見せていた。
もちろん、灰原自身には「基準」となる記憶がないため、全てが初めて見るものであり、「未知」のものであることに変わりはない。
灰原にとって、この世界に在るもの全てに対して抱いていた称賛の念は、対象の「大きさ」や「派手さ」から起因するものしかないのだ。
だが、彼女にとっては「未知」ではない。
ここまでの施設に関する灰原の質問に対し、彼女はほぼ全ての質問に答えることが出来ていた。つまり、この校内に在るものは蒼にとって、「既知」のものであるという事になる。
灰原には記憶が無く、
蒼には、「記憶」、「知識」、「経験」がある…ということ。
「無知」の灰原と「有知」の蒼。
この両者を分けるのは「記憶」の有無であり、具体的には歩んだ人生で何を得たのか…という経験値によるものが大きい。経験値の差でいえば、おそらく灰原は赤子同然のものなのだろう。
しかし、だからこそ…なのか。
灰原が持つ唯一のものは〈好奇心〉であり、知識への「探求心」である。
だが、その核を突く言葉で言い換えれば、灰原には「無知からの脱却」を無自覚に目論んでいる…知識への〈飢餓感〉しかないのである… 。
…その灰原が、自身とは違う経験値を持ち、「知識」と「記憶」を持つ紅葵(もみぎ) 蒼に質問をぶつけたのは、灰原が「未知」と捉えている「対象」に対する一般的な意見を聞きたかったから…という灰原の意識内では素朴な理由によるものであった。
「…そうね…知ってはいるけど、こんなに‥‥こんなに—-—かったのかな…って。」
「…?」
後半にかけて彼女の声が小さくなってしまったために、灰原は最後まで上手く聞き取ることが出来なかった。
元気で明るめな彼女が、そのように答えたことや、今までテキパキ…と灰原の質問に答えてきた彼女が少し遠くを見るような表情をしていた事もあり、どうすれば良いのか分からず、と灰原は返答に困ってしまう。
「…はっ…。」
しかし、困惑していた灰原の表情を察したのか。
はたまた、別の理由なのかは分からないが、背中に常温のものを当てられたように彼女は少しだけ背筋を立たせて、灰原の質問に答える。
「うん…! ここの施設は…全体的にレベルが高いと思う…!」
「‥‥そうか。」
その取り繕ったような笑顔と解答に灰原は追及してはいけない「透明な壁」のようなものを感じ、体勢を〈劇場〉のステージに向ける。
「……ふぅ……。」
溜め息と気づかれないように、か細く、深く、長い息を天井へと噴き上げていた…。
〈劇場〉の出入り口である黒革の大扉を通り過ぎ、「背表紙」部分の中央にあるエレベーター付近にまで戻ると、多くの生徒が「文化棟」の「左翼」部分へと向かうのが見えたため、灰原たちは「左翼」の方面へと向かうことにした。
‥‥だが。
―――「…懐かしい」 「…これだな」 「まぁ…」 「おお‥‥」―――
「…蒼、ここは後にしないか?」
「…そうね。」
多くの生徒が向かって行った「左翼」の倉庫内には、演劇で使用する大道具や小道具が数え切れないほどに内包されていたが、それに比例するように他の生徒が多数いたこともあり、二人は「右翼」側から探索をすることにした。
…人の多い「左翼」とは対照的に、湿度や温度が徹底管理された「右翼」の倉庫には「吹奏楽」で扱う楽器が多数置かれていたが、他の生徒は誰もいない。
剥き出しの楽器を見ていた灰原は、不意に触って音を出したい衝動に駆られたが、「今は【ML】を探す時間だ」と、ぐっ…と堪えて【ML】探しを続けようする。
「‥へぇ…懐かしい。」
ポロロン…と窓際に置かれていた電子ピアノを鳴らし始めた彼女に、灰原は少し、むっ…とした表情を向ける。
「…♪」
だが、彼女は何を勘違いしたのか…灰原に見せつけるように軽く華麗な演奏を披露したかと思えば、「ふふーん」と言わんばかりに自慢気な笑みを浮かべるのであった…。
————違う…そういう意図はないのだが…。
内心そう思いながらも一応、灰原は華麗な演奏を聞かせてくれた彼女に拍手を送ると、気を良くした蒼が悪魔の言葉を囁く。
「熾凛も弾いてみる?」
〈劇場〉で見せた「あの」表情の記憶を掻き消すほど、屈託のない笑みを浮かべる彼女と、その甘い誘惑に灰原は「少しだけ…。」と答えてしまっていた…。
「‥‥特に…良いと思った物はなかったな。興味を引く物は数多くあったが…。」
「…そうね。…ちょっと、はしゃぎ過ぎたかも…。」
結局、あのまま倉庫内にある楽器で遊んだ後、急いで「演劇」倉庫を見て回ったが、思ったほどの成果は上げられなかった。
…現在、二人は両翼間にある広場のベンチで肩を落としながら反省会をしていた。
「…次はどこに行こうか?」
灰原が蒼に尋ねる。
全ての施設を探している時間は、もう残されてはいない…。
——————…
ポーンッ‥という軽快な音の後に、どこかで聞いたような女性の声が放送で流れる。
『…開始から二時間経過しました。残り時間は一時間です。』
「「‥‥はっ…。」」
アナウンスと同時に、二人はピアノを触る手を止める。
想像以上に時間が経過していたことに気が付かず、遊び惚けていた少年少女は我に返り、急いで【ML】探索を再開したのであった…。
…——————
…あのアナウンスが無ければ、二人の【ML】は「吹奏楽」倉庫にある物になっていただろう。「大事な【ML】を決める時に何をしていたのか…」と後悔の念はあったがそれなりに気分転換ができたのも事実であった。
だが、残り時間が少ないことも考慮すると、次の場所が最後になってしまうだろう。
「…熾凛(さかり)が決めていいよ。何だかんだ…ここまで私が引っ張ってきちゃったし…。」
「いいのか? じゃあ…。」
‥‥意外にも、灰原が最後に行く場所は決まっていた。
二人は「文化棟」を後にして、最後の探索場所へ向かおうとするが、「文化棟」正面に広がる「グラウンド」内で、灰原は二つの人影を目撃する。
目を凝らして見ると、どうやら鉢合わせた生徒の二人が今まさに〈生徒手帳〉を使って戦おうとしている場面であった。
「蒼…あそこを…。」
「グラウンド」の方向を指差して蒼に現状を伝えると、途端に彼女は灰原の手を引き、「文化棟」と「グラウンド」の境にあるフェンスの支柱へと誘導する。
その時の彼女の表情は遭遇することすら珍しい、神秘的な生物を前にした子どものような幼さを含んでいた。
「…良いタイミング…っていうのかな? ‥‥あ…始まるよ…。」
声を潜め、気づかれないようにフェンスの柱の陰から顔をひょっこり…と覗かせる彼女は、どこか楽しそうに戦況を見守っていた。
———‥‥なぜ、このように隠れる必要があるのか…。
彼女の行動に疑問を感じつつ、彼女に灰原もフェンスの影から戦況を観察する。
…なぜだか分からないが、悪いことでもしているような気分であった。
「‥‥‥———。」
「————っ…。」
隠れているフェンスの柱から「グラウンド」に立つ二人は、かなり遠い位置にいるため、二人の会話の内容までは聞き取れない。
そのため、灰原は無意識に視認で得られる情報を可能な限り収集していた。
一人は黒髪の男子生徒、もう一人は血のように紅い髪を持つ女子生徒。
身長は二人ともほぼ同じ大きさであり、女子生徒の身長が蒼よりも高め…といったところだろう。
その女子生徒が高い身長と紅い髪を持っていたこともあるのかもしれないが、遠くからでも感じる「何か」に、灰原の視線は自然と紅髪の彼女に引き寄せられていた。
『‥‥開始…。』
風に乗って電子音が流れる。
どこから発せられた電子音なのかは、未だに分からなかったが、アナウンスで流れる女性のものと同一の声音であった。
…しかし、すでに開始の合図は送られたにも関わらず、二人に動きは見られない。
「「‥‥‥。」」
…どうやら、両者共に疑似【ML】である〈生徒手帳〉から「創造物」の創造に時間がかかっているようであった。
しかし、十秒もたたないうちに男子生徒が〈生徒手帳〉から「ナイフ」のような短い棒状の「創造物」を創造すると、即座に距離を詰め始めた。
丸腰の相手に容赦のない進撃。
はたから見れば、違和感のない男子生徒の足運びなのだが、灰原は微妙な「ぎごちなさ」の様なもの感じた。
しかし、それは流れる川の端にある小さな岩が生む波紋程度のもので一見すれば、無駄がなく、流動的な動きであった。
一方の女子生徒は、距離を詰め始めた男子生徒を見て、〈生徒手帳〉からの創造を完全にあきらめたのか、〈生徒手帳〉をブレザーに収めてしまう…。
————男子生徒の勝利は確定したものだろう…。
…と、戦いを見ていた灰原は最後まで、そう確信していた。
一方の蒼は、「わわわ~…。」とでも言いたげに口をあんぐり開けたまま、女子生徒を案じているような様子を見せていた。
「別に声は上げてもよいのではないか…」と彼女の様子を見た灰原は、内心そう感じていたが…事態はそれどころではなくなった。
…勝敗はその数秒後の決したのである。
男子生徒の短く、素早い突きを軽く避けた女子生徒は、簡単に男子生徒の腕を掴み取ると豪快に投げ飛ばしていたのだ。
遠目からだったので詳細に見えていたわけではないが、女子生徒が片手で男子生徒を投げ飛ばしているようにも見えたのは…さすがに灰原の見間違いであろう。
投げ飛ばされ、ドシャ…と鈍い音で地面に着地した男子生徒から次の攻撃はない。地面に倒れた生徒が腹部を抑え込むようにして丸くなっていたのは、投げ飛ばされたダメージが抜け切らないからだろう…。
『…勝者…———‥。』
男子生徒の沈黙から数秒経つと、電子音が勝敗を告げていた。
この勝負の様子をどこから見ていたのかは分からないが、「【ML】争奪戦」の管理はしっかりとされているようだ。
「うあああああああっ‥!!」
二人の勝負の起因であった「金属バット」を空へと掲げて、紅髪の女子生徒は勝利の雄叫びを上げていた…。
「…なるほど、そういう手もあるのか」
二人の勝負がついた直後、灰原は感想を口にしていた。
何も「肉弾戦で戦ってはいけない」とは言われてはいない。
戦う手段は、何も〈生徒手帳〉だけではないのだ。
その他にも〈生徒手帳〉の扱い方や創造の具合、身体の動かし方など…戦闘面において、色々と学べたことは非常に勉強になった。
この「【ML】争奪戦」において、灰原が戦うことはないかもしれないが、無知のままいきなりに戦いを迎える…というのは、灰原の不安の一つでもあった。
そんな灰原の様子を見て、「熾凛(さかり)って…すごい見てるよね。」と蒼の声が聞こえた。
「…そうなのか。言われてみれば確かに…そうかもしれないな。」
自分の癖…なのだろうか。もしかしたら、記憶のない身体が知識を求めているのかもしれないが、「知りたい」と思うと同時に気になった対象を見てしまうのだ。
———「深呼吸」のように、無意識の…いわゆる本能的な行動なのかもしれない。
灰原は自身の無意識の行動に少し驚いていると、知らぬ間に目的地へ向かう蒼に呼ばれ、「グラウンド」を後にする…。
「グラウンド」を後にした灰原と蒼の二人は「第一校舎」と「マンション」を通り過ぎ、最後の探索場所である「体育館」に向かう。
「体育館」は〈下部〉と〈上部〉の二段構造になっており、下部は「武道場」、上部が「アリーナ」となっている。
着いた途端に「アリーナ」の内装が気になりだした灰原は蒼を連れて、先に上部の「アリーナ」へ向かうことにした…。
…「アリーナ」に入ると、大窓から差し込む陽の光に二人は目を眩ませる。
手で影を作りながら大窓の方向を見ると、巨大なカーテンがわずかに開いており、そこから陽の光が侵入したようだった。
入り口から右側には、〈劇場〉のものよりも小さめの〈ステージ〉があり、「アリーナ」の上段には〈ステージ〉を「匚(はこ)」の字型で囲むように幅広い通路が並んでいる。
上段の通路へは、〈ステージ〉の両脇にある階段から上階へ登れるようで、片脇には音響器具が並んでいた。
〈ステージ〉の床下には、大きなグランドピアノが潜み、備え付けのボタンを押せば開閉可能…という〈劇場〉にあるものと同じ仕組みになっているようだ。
〈ステージ〉の反対側にある体育倉庫には、様々な競技で扱うボールや器具が保管されており、二人で【ML】を探すが、心揺さぶられるものは見つからない…。
「…最後は「武道場」に向かおう。」
「うん…わかった!」
さすがに灰原も焦り始め、その声は少し強張ったものになっていた。しかし、そんな灰原に対し、ニッコリ…と楽しそうな笑顔で彼女は答えていた。
残り時間の三十分を切ったにもかかわらず、紅葵 蒼に焦る様子は見られない。
むしろ、楽しそうに【ML】を探している彼女は、校内を探索すること自体に楽しみを見出しているようにも感じた。
「‥‥っ。」
彼女の笑みに灰原は少したじろぎながらも、二人は最後の探し場である「武道場」へと向かう…。
「…なんで…ここだけ汚いのかしら?」
「誰かが「何か」を探していた後…のようだな。」
「武道場」に入った途端に二人は異変を感じた。「武道場」の各所には、明らかに人の手が触れた形跡があり、随分と荒らされていた。
今まで訪れた場所は整理整頓が行き届いており、他の生徒達も【ML】の探索を終えた後、基本的には動かした物を元の位置に戻している。
「三時間」という余裕のある時間が設けられているため(時間を忘れて遊び惚ける…という戯れが過ぎなければ…)、それほど急いで探さなければならない…という状況でもない。
その荒れた「武道場」の様子からは、犯人の「必死さ」や「執着心」が感じられたが、犯人は一体何を探していたかは誰にも分からない…。
———…犯人の思考、犯人の意図…。
灰原が「武道場」の謎について思考を張り巡らしていると、蒼が声をもらす。
「あっ。」
「どうしたんだ。」
何かを思い出したような声を上げた蒼に灰原は質問を投げかけると、彼女はある方向を指差しながら返答する。
「私…あれにしようかな。」
彼女の指差した先を見ると、天上の壁に祀(まつ)られている「神棚」であった。
「あの祀(まつ)られている木の造形物のことか?
【ML】としては…変わっているな。」
「神棚」というものを知らない灰原にとって、なぜ彼女が木の造形物を【ML】にしようとしているのか…その意図が全く読めなかった。
「いや、ちがう違う。あの神棚にある「御神札(おふだ)」のこと…。」
————なるほど…おそらく、あの紙のことか…。
祀(まつ)られた「神棚」の中には、確かに「御神札」があった。
「御神札」には、達筆な字で何かが書かれているが…読めない。
「…あれはどうやって取るんだ?」
神棚までの高さは床から4mほどあり、何かの道具を使わなければ取れない位置にある。
———何か踏み台となるようなものがあれば…。
そう思い、灰原が周囲を見渡すと「武道場」の入り口付近に机と掃除道具入れがあった。
「…蒼。あれを動かせばどうにかなりそうだ。」
蒼の肩を軽くつついて、灰原は机と掃除道具入れのことを伝える。
「上手く組み立てれば何とか登れるはずだ。」
「そうね…わかったわ!」
そう言って蒼は軽々と机を持ち上げて、「神棚」の方へと向かう。
…となると、灰原は残った掃除道具入れを運ぶことになるわけで…。
「運べるだろうか…。」
心配そうな声を上げながらも両手に力を込めて、自身の身長よりも高い掃除道具入れを持ち上げる。
———重いが…何とか運べそうだ‥。
そう思った矢先、バシッ…と何かが落ちる音がした。
「…?」
落ちた「何か」が気になったが、今の灰原には下を見る余裕もなく、いま手を放すわけにもいかず、先に掃除道具入れを神棚の近くまで運ぶことにした…。
「…よいしょっ!」
掛け声と共に彼女は机を置き「ふーっ‥」と、まるで重い物でも持ったように両手を腰に当て、上体を軽くそらした後、伸びをしながら息を吐き出す。
————おかしい、俺のほうが倍以上に重いはずなのだが…。
彼女の行動に不満を感じながらも、灰原は組み立てた机と道具入れの位置を確認する。
「…よし、これで大丈夫なはずだ。俺が体重をかけて抑えておくから、蒼は「御神札(おふだ)」を取って来るといい。」
「本当? ありがとね、熾凛。」
お礼を言うと、彼女は机の上に立ち、道具入れを登り始めようとする。
しかし、直前になって動きを止めると、少し恥ずかしそうに振り返り「しばらく…こっちを見ないでね。」と釘を刺されてしまった。
————何か見られたくないものでもあったのだろうか…。
灰原は彼女の言葉に首を傾げながらも、彼女が登っている最中に道具入れが倒れないように全体重をかけて固定する。
「…よいしょ…。」
少しすると、彼女の掛け声とともに道具入れの揺れが収まる。
どうやら、無事に道具入れの上に登れたようだが…灰原にそれを確認することはできない。
少しの間、暇になった灰原は「どうしたものか…」と考えていると、先程落とした物の事を思い出して入り口付近に向かう。
先程まで無かったものが床に転がっていたので、「それ」はすぐ目についた。
灰原は落ちていた「それ」を拾い上げて観察する。
「これは…「竹刀」だろうか?」
大きいものと小さいもの、二種類の「竹刀」が落ちていた。
おそらく、今さっき運んだ掃除道具入れと壁の間に挟まっていたものが、道具入れを動かした結果出てきたのだろう。
小さいものは朽ちて剣先が割れていたことから、「元は二種類とも同じ大きさのものだったのだろう…」と観察しながら推理していると…。
「‥‥‥‥。」
「————っ!」
突如として、何かの視線を感じた灰原は反射的に視線の方へと振り返る。
「…やっぱ、ここにあったか…。」
一人の大男が「武道場」の入り口に立っていた。
身長はかなり高く、ワイシャツの上からでも分かるほど筋肉質な体をしていたため、その屈強な身体は灰原よりも一回り、二回りは大きく感じられた。
上着のブレザーは…おそらくサイズが合わなかったのか、腰に巻き付けてあり、ワイシャツも袖を肘までまくっている。
髪はサイドとバックを刈り上げており、サイドには左右で対称的な刈込みによる二本の線が入っていた。バックをきちんと見ていないため断言はできないが、二本の線は後ろで重なって「X」を描いているような放物線を描いている。ここまでの大男の強烈な見た目の中でも黒髪の山を三つ築いたようにセットされた髪形は、かなり目を引くものであった。
教室で見た最上(もがみ) 秀昇(ひでたか)のリーゼントに似たような種類の髪型だが、大男から感じられるのは「黒い」ものであった。
「お前…「そいつ」をどこで見つけたんだ。」
気づいたら大男は灰原の近くにしゃがみ込んでいた。近くで感じる大男の威圧感に灰原は少し圧倒されながらも大男の問いに答える。
「この「竹刀」のことか? 俺も先程見つけたのだが、どうやらそこにあった掃除道具入れの裏に引っ掛かっていたらしい。」
今しがたまで掃除道具入れがあった場所を指差しながら、灰原は正直に大男に説明する。
「ほおっ! 通りで…倉庫ンなか探しても見つかん無(ね)ぇわけだ!」
場に合わない大声で大男は反応する。
まるで、灰原の恐怖心を煽るために大声を発したかのようにも感じたが、そんな事よりも大男の発言は灰原が気になっていた謎を解いてくれた。
…どうやら、この大男が「武道場」を荒らした犯人だったようだ。
「武道場」の荒れ具合から感じた犯人の「執着心」。
なぜ、大男が「竹刀」という物に強くこだわるのかは分からなかったが、『三時間』も一つの物を探し続けるというのは、相当に骨が折れる作業のはずだ。
そこまで一つの物に執着する大男もさることながら、どういう原理で「竹刀」という物が大男にここまでの行動をさせているのか‥‥灰原には全く理解できなかった。
「…うっし。じゃあ、お前…「そいつ」をよこせ。」
「‥‥。」
大男の行動心理について頭の中で考えていた灰原は、その言葉に「やはりか…」と心の内で肩を落とす。ここで拒否する…という選択肢を取れば面倒なことになるのは間違いないだろう。
————‥‥どうしたものか…。
『あぁ、見つかって良かったな。』
…と渡してしまえば、事は簡単に済むだろう。
大男は満足そうに教室へ戻っていき、灰原は残りの時間を蒼と二人、もしくは一人で【ML】探しに出向かなくてはならない…。
明らかに後者の方が簡単に事を解決できる…それは分かり切っている事なのだ。
だがしかし、この「竹刀」という物は、今まで触れた物とは違い、手に馴染んでいる。
初めて触る物なのに妙にしっくりくるのだ。
————これが蒼の言っていた「直感」の選択…というものなのだろうか。
「直感」の選択…それはつまり「自分」という本能の選択だ。
理性ではなく、本能がこれを受け入れたというのならば…灰原に本能の選択を破棄することはできない。
そう自覚した途端に灰原の選択は決まった。
「すま‥‥」
「すまないが…」と断るために、大男を見上げた瞬間に灰原の視線が右側に移動し、後から遅れて身体が右側に飛ぶ。
————何が起きた…?
塩崎という男の命令によるあの無意識下の行動とは全く別の視線移動。
しかし、やがて感じ始めた左頬の熱、鉄のような味を味覚で感じてから、ある事実に灰原は気がつく。
————そうか…俺は殴られたのか…。
自覚した途端に左頬に激痛が走る。だが身体の痛みよりも、灰原は胸にポッカリ…と穴が開いたような空白感に不快感と嫌悪感を覚えた。
「ちょっと! あんた何してんのよ。」
いつの間にか、掃除道具入れから降りてきた蒼が叫ぶ。
その手には「御神札」が握られていたことから、どうやら無事「御神札」は入手できたようだ。
「あぁ? なんか文句あんのかよ。」
「…っ…。」
大男の荒い口調に蒼がたじろぐ。
この時の彼女が酷く怯えているように感じた理由は一つ。
同じ「人」という存在であるにも関わらず、このような行動をする大男の心理が読めない…という「無知」故の「脅威」を抱いていた灰原。
それに対して、「記憶」、「知識」、「経験」がある「有知」の蒼にとっては、大男から発せられている威圧感はもちろんのこと、大男には決して敵わない力の差が存在していることが大きく関係している。
敵わない力の差。
それは「男」と「女」という性別による身体能力の違いであり、その「差」というものを彼女がよく理解していた。
…その「有知」であるが故に感じ取った紅葵 蒼の経験則から生まれた「脅威」は、灰原の感じた「脅威」とは似て非なるものである…。
「別にまだ〈生徒手帳(てちょう)〉当ててコールしてねぇんだろ。
だったらいいじゃねぇか。俺は「三時間」近く、ずぅ‥‥っと「そいつ」を探してたんだよ!」
「でも…。でも、見つけたのは…あんたじゃないでしょ?」
「だ・か・ら…。さっきから何なんだよ。お前はよぉ!」
両者が睨み合い、「武道場」内の空気が緊迫する。
「‥‥!」
そんな中で灰原は大男の威圧感に飲まれつつあった蒼の足が小刻みに震えていたのを発見する。
だが、それでも彼女は【ML】である「御神札」を握り、戦う意思すらあることを大男に主張している。
脅威に耐え、虚勢を張る彼女。
その彼女が一体誰のためにリスクを負っているのか…。
殴り倒された灰原 熾凛に他ならない。
――――――…さけない‥‥なさけない…情けない…!
見ず知らずの男のために、ここまで共にいてくれた彼女に、これ以上迷惑をかけてはならない。
――――――急いで「竹刀」を渡して‥‥それから…。
…数秒の思考の末に…灰原が「竹刀」を明け渡そうとしたその時であった。
「お前ら‥‥何してんだ?」
思わぬ方向から第四者の声が聞こえると、反射的に三人の視線は「武道場」の入り口にいる一人の人物に集中していた。
緋色の髪。豪快ながらも丁寧にまとめ上げられたリーゼント。
わたりの広いボンタンとホックを外したブレザーで、バシッ…と決めた服装。
…なのだが、首元に結んだリボンは蝶々結びに失敗したのか…輪っかが下に垂れ下がってしまっている。
見た目は悪目立ちしているが、どこか憎めない男。
あの塩崎に【ML】を決められてしまった悲運の男‥‥最上(もがみ) 秀昇(ひでたか)だった。
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