通勤は仲間であふれている

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 私が使う路線は、都会ほど人が詰め込まれない。田舎駅から田舎駅を結ぶ路線の電車内は、知らないけれど知っている人達で溢れている。先程から、私の目の前で吊り革にぶら下がっている僅かな希望しかない禿げ頭などは、かれこれ四十年近く、私と同じ電車で通勤している。私は、彼を禿げと密かに呼んでいて、実は一番、親近感をもっていたりする。四十年ガムシャラに会社と家族のために働いていることと、よれたスーツに、近いものを感じる。決して私が、自分の頭頂部を気にしているからでは無い。  四十年という月日は、話したことの無い相手でも、生活スタイルが分かってしまうものだ。  禿げのネクタイが週三本でローテーションされていることや、昨日締めていたネクタイがホツレていたので、実は現在二本しかないこと。  おそらく、今週末には、新たな三本目が加わるのであろうことも、予測できる。ネクタイに拘りが無いのも知っている。どうせ今回もまた、町のショッピングモールで売れ残ったような柄だろう。  何せ数年前、休日に妻とショッピングモールへ足を運んだ時のことだ。春のワゴンセール品にされたおでん柄のネクタイを見て、誰が買うんだと、二人して笑っていたというのに、翌日禿げが付けていた。  あれには、正直参ってしまった。  何せ纏っている哀愁とマッチしていて、予想以上に、変な方向の意味で似合っていた。いつも私の隣に座る若い女性も、笑いを堪えていたのを、はっきりと覚えている。あの時は、この可笑しさを共有したくて、彼女に話かけたくなったくらい、ここ最近で面白いエピソードだ。私のようなオジサン(もしかしたら、オジイサンと、思われているかもしれない)に話かけられるのも困るだろう。そう思って、踏みとどまったことまで、鮮明に覚えている。     
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