一万円札

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 先日のことである。夜、仕事から戻り、最寄りの駅を出てくると、まさにその目の前の、そんなに広くない歩道を占拠し、ミュージシャン志望と思しき二十歳前後の青年が、ギターの弾き語りで、自ら作ったラブソングを熱唱していた。そしてフルコーラスを歌い上げ、熱唱が一段落すると、近くで熱心に聴いていたある男が、地面に置いた蓋の開いたままのギターケースに向かって、千円札を放り投げたのである。その、お金を投げるシーンに、自分の脳内の記憶を司る器官が、瞬間的に反応した。 「・・・似ている、いや、多分、この男じゃないか」    実はもう、一月以上前のことになる。同じく仕事帰り、夜道を一人で歩いてた自分は、後ろから来た男に突然、右の拳で顔面を殴られたのである。見事一発でKOされた自分は、地面に尻餅をつき、訳も分からず上を見上げると、その男は自分に向かって、無言で一万円札を放り投げてよこし、すぐにそこから立ち去っていったのである。  残念ながら、男の顔は暗闇で判別がつかず、後に、警察に被害届をとも考えたが、あまりにも状況が奇怪な上、曲解や誤解を受けない様、事件を合理的に説明をする自信が持てずにためらっていたところ、顔の腫れが10日程で引いていったのと同じくして、そんな考えも、うやむやとなってしまっていった。  そんなことを思い出し、その場で立ち止まって、その男の横顔を凝視していると、我々のすぐ後ろを通りかかった若い男が、吐き捨てる様にこう呟いたのである。 「ったく邪魔くせえな。自分さえ良けりゃそれでいいのかよ、下手な歌歌いやがって」  その発せられた言葉に、男の横顔は反応した。一瞬、鬼や仁王のごとく変化したのである。そしてすぐに男は、その若い男の後をつけ始めた。やがて起こるかもしれない事態を察知したのであろうか、自分の足も、自然と男の向かう方へと、歩を同じくしていったのである。  若い男を男がつける。その男をまた、自分がつける。そんな二重尾行状態の中で、ふと、記憶が甦った。あの男に、突然殴られた晩、自分は駅前のコンビニで、もたもたしていて全く要領を得ない、新人の高校生バイトを、虫の居所が悪かったせいもあり、口汚く罵ってしまったのである。何故彼が、新人と分かったかというと、「新人」というバッジを胸につけていたからだ。
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