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史郎の第一印象は、一言で言えば『お調子者』だった。しかし付き合いが続く中で、だんだんと解ってきたことがある。それは、この男はどこか不敵で、隙がないということだ。雨野は、そんな史郎の掴み所のなさに、苦手意識を抱いていた。
史郎は壁にもたれ掛かり、体を手持ちぶさたに揺らしている。
「そういえば、入院してる『樹おじさん』って、お義父さんの元戦友の方でしたっけ?」
樹、と聞いて雨野は一瞬動きを止めた。
「うるせえな、黙ってろよ」
ぷいっと顔を背け、ぶっきらぼうに呟く。
史郎が何かを探ろうとしている――そういう風に感じて、自然と警戒心が強まっていく。雨野はそわそわと、下駄箱に並んだ靴を意味もなく端から揃えだした。
「えーと、あれ? 上官と兵隊さんでしたっけ?」
「……」
「樹さんって、たしか僕らの結婚式にも来ていただきましたよね。葉子サンも、子供の頃からさんざんお世話になってきたんでしょ」
「……おい」
雨野はもう一度振り返って、史郎の顔を見上げた。とにかく、よく喋るこの娘婿を黙らせたかった。
口を開いて、「余計な詮索をするな」と文句を言いかけた。すると史郎は
「早くお元気になるといいですね」
と、小首を傾げて、雨野に微笑んだ。
先程までのニヤけた顔はどこへやら、史郎は、今度はとても優しい表情をする。ただ純粋に病人の身を案じているだけ、というような。
まったく、この男は本当に掴みどころがない。雨野は開いた口をぱくぱくさせたあと、俯いて黙り込んでしまった。
その時、廊下の奥から、軽い足音が聞こえた。
視線を向けると、いそいそと玄関に姿を現したのは、雨野の妻だった。
「史郎さん、お待たせしました。あら、あなた……」
「それじゃ史郎君、よろしく頼むよ」
雨野と妻と、二人ほとんど同時に声が出た。
妻は、何か続きを言いたそうな顔をしていた。しかし雨野は立ち上がり、何も聞かずにその横をすり抜けた。
廊下の奥の部屋へ向かおうとすると、妻が背を追うように呼びかけてくる。
「あなた、葉子の病院に――」
「お義母さん、お義父さんは外せない用事があるみたいです。葉子サンの体調も落ち着いてるし、そんなに心配しなくても大丈夫ですよ。二人で行きましょう」
すかさず、史郎が口を挟んだ。
雨野は振り返った。史郎と目が合った。やはりニコニコと、愛想の良い顔を向けてくる。義母に冷たい義父を、非難がましく見るわけでもない。――しかし、その本心は読み取れない。
「……ええ、そうね」
と、妻は伏し目がちに答えた。
妻はくるりと雨野に背を向け、玄関にかがみ込んで草履を履く。エスコートするように、史郎がその手を取った。
「それじゃあ、また!」
史郎は雨野に向かって、下手くそなウィンクをした。
その妙なジェスチャーに、思わず硬直した。ワンテンポ遅れてから、ぎこちない笑顔で手を振ると、二人は連れ立って玄関を出て行った。
どうもこの男にはかないそうにない――廊下に立ち尽くし、雨野はそう思った。
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