1 樹

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 * * *  史郎達と別れた後、雨野は新宿区にある大学病院へと向かった。  西日の眩しさに目を細めながら、駅舎を後にする。すでに通い慣れた道だ。セミの大合唱の中を足早に進むと、目的地には5分ほどで到着した。 「ご面会ですか? 患者さんと面会者さんのお名前をどうぞ」  受付で促され、記帳を済ませる。それからエレベーターに乗り、入院設備のあるフロアへと足を運ぶ。院内はほどよく冷房が効いていて、汗に濡れた背中が、だんだんと冷たくなってくるのを感じた。  雨野は『日高樹(ひだかいつき)さま』という名札が掲げられた個室の前で足を止めた。  扉を軽く2回ノックすると、「はい」と少し掠れた声がする。  スライドドアを静かに開けると、この部屋の入院患者――樹が、ベッドの上で上半身を起こした。樹は雨野の顔を見ると、嬉しそうに微笑んだ。 「正太郎(しょうたろう)さん、いらっしゃい」 「樹、調子はどうだ」 「今日は、だいぶ良いみたいです」  雨野はベッドの側の丸椅子に腰掛けた。 「そうか、良かった。この様子ならすぐにまた退院できるさ」  励ますようにそう言って、樹の手をそっと握る。――細くなった手首。ここ一年で、いっそう弱々しくなった。それは樹の、62歳という年齢のせいだけではなかった。  樹が肺を患い始めたのは、6年前のことだ。そこからの体力の衰えようは、坂道を転がるかのようだった。  病の進行をくい止める事は容易では無く、こうして時々体調を著しく崩しては、入院する。病院で集中的に治療をすれば、一時的には回復するが、それは穴の開いた器に水を注ぐようなものだった。
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