1 樹

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「聞いてくれ。昨日、葉子が無事出産したんだ。男の子だった。俺もついにじいさんになったよ」 「それはおめでとうございます。母子ともに健康ですか?」 「ああ。逆子で大変だったが、なんとかなった」 「そう……良かった」  樹は安心したように微笑む。その笑顔は、昔と何一つ変わらない。  1945年に終戦を迎えた太平洋戦争。その時、雨野と樹は中国大陸にいた。  樹は雨野の部下だった。終戦の数ヶ月前、雨野の小隊は満州とシベリアの国境沿いへ向かった。戦闘で負傷した樹を陸軍病院に置いて――。  戦火の中、ソ連軍に抑留(よくりゅう)された数年、復員後の苦しい日々。耐え忍ばなければならない時、雨野がいつも胸に思い浮かべてきたのは、樹のその優しい笑顔だった。  雨野はそっと樹の髪を撫でた。 「娘婿が、しょっちゅう家に入り浸っていて困るよ。アイツはどうも食えない男でね」 「葉子ちゃんの旦那さん、確かものすごく元気な――」 「そう、それなんだよ。まあ、俺みたいに嫌な男じゃないから良かったけどな」  短い髪の感触が心地よい。樹の形の良い頭に、何度も手のひらを滑らせる。  樹は照れくさそうにその手を取り、両手で包み込んだ。 「正太郎さんは、いい人ですよ」 「どこが」  自嘲する雨野に、樹はただただ優しく微笑みかける。『甘やかされているな』と思いながら、雨野は苦笑いをした。  棚の上に置いたガラスの花瓶がキラリと光る。談笑しているうちに、窓から夕日が差し込む時間になっていた。反射した陽の光が、光線となって病室の殺風景な壁紙を彩っている。  そういえば、と思い出したように樹が口を開いた。 「聞いてください。今日、戦争の時に同じ復員船で帰ってきた仲間から、手紙が来たんですよ」 「へえ、なんだって?」 「いえ、『元気にしてるか?』とか、そういう他愛もない内容だったんですが。ここ数年は年賀状のやりとりだけしかしていなかったので……珍しいこともあるものだなと思って」  樹は遠くを見るような目をして、呟く。 「辛い時代だったはずなのに、なんだか……昔が懐かしくなってしまいました」 「俺達が出会った頃、か」 「ええ」  雨野も、なんだか懐かしい気分になった。  軍隊で初めて出会った時、樹は19歳だった。まだ子供のような艷やかな頬をしていた。離ればなれになるまでの間、樹はいつも雨野の側にいた。  樹は、兵隊としては優しすぎる部類の男だった。そして優しく純朴な樹のことを、雨野は好きだった。  陸軍病院で別れた時は、もう二度と会えないだろうと覚悟した。しかし、時を経て二人は再会し、今ここにいる。今も変わらぬ笑顔を向けてくれる樹のことを、雨野は愛していた。  それは40年以上続く、二人だけの秘密だった。
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