10 託すもの

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 雨野が病に倒れ、余命宣告を受けたのは、樹の死から数ヶ月後のことであった。  検査結果を聞いたその日、雨野は腑抜けたように病院を後にし、電車に乗る気も起こらず、とぼとぼと夜道を歩き続けた。  ビル街の明かり、喧騒、自動車のエンジン音。色々なものが横を通り抜けていく。だが、その全てが目や耳に入ってこない。  ふと、手のひらに視線を落とした。手の甲や手首も、まじまじと見る。すっかり老人の手だった。別に、いつまでも若いつもりでいたわけではない。しかし、自分は一体いつの間にこんなに老いていたのかと、しみじみと感慨深い思いさえ湧いてきた。  家に帰ると、ちょうど家族が全員揃っていた。雨野はリビングに家族を集め、立ったまま淡々と、現在の病状につて説明した。  当然、その場にいた皆が動揺した。 「だって、そんな。ずっと元気だったじゃない!」  葉子が驚いたように言う。 「あなたって人は、どうしてそんな大事な話を聞くのに、一人で病院に行ったりするのよ!」  妻が責めるように言う。 「今後の治療方針とか、あれですか、なんか……いい方法ないんですか本当に」  史郎が狼狽えたように言う。  なんとかならないのかと、皆が口々に言った。  その時、雨野は樹の顔を思い浮かべていた。元気だった頃の顔、病室で見た弱々しい顔、最期の顔。それからまた、自分の手をじっと見下ろした。 「もういいんだ」  気が付いたら、そんな言葉がポロリと口から零れ落ちていた。  その瞬間、いきなり頬にビンタをくらった。  よろけて、側にあった椅子の背を掴む。  唖然として顔を向けると、葉子が真っ赤な顔をして仁王立ちしていた。 「親父ィ……てめぇ何言ってんだ」 「葉ちゃん!」  史郎と妻が、慌てて静止に入る。 「何言ってんだテメー」 「葉子、なんてことするの!」 「葉ちゃん、ダメだってえ。病人殴ったりしちゃ」  史郎に羽交い締めにされながら、葉子はわなわなと体を震わせて、目に涙を浮かべながら怒鳴った。 「なんだそりゃ……ふざけんじゃねえぞ!」  もはや、何に対して怒っているのかもわからない慟哭だった。  雨野は頬をさすりながら、なぜか笑いがこみ上げそうになっていた。笑えば、また葉子は怒るだろう。ぐっと堪えたが、『頬を叩かれるなんて、初年兵の時以来だな』と思うと、妙に可笑しかった。  不思議な程、落ち着いた気持ちでいた。まるで、湖に落ちる一枚の木の葉になったかのように。  こうして雨野は静かに、自分の運命を受け入れることにしたのだった。
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