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1987年6月
この日、雨野の病室は賑やかだった。
葉子たち一家が見舞いに来て、一緒にケーキを食べたり、他愛もない話をして過ごした。
昨年生まれた孫の篤郎はよく笑う子で、病室の陰気な空気を吹き飛ばしてくれた。今は疲れて、母親の腕の中でスヤスヤと眠っている。
「それじゃあお義父さん、また来ますね」
「なんか食べたい物でもあったら言ってよね」
史郎と、篤郎を抱いた葉子が丸椅子から立ち上がる。
雨野はその背に向かって絞り出すように声をかけた。
「……史郎君」
史郎が足を止め、振り返る。
「ちょっと話したい事がある」
病室のスライドドアを開きかけた葉子も、振り返って訝しげな表情を浮かべた。
「お父さん何? 話って」
「お前じゃなくて、史郎君に話だ」
何よ、と頬を膨らませる葉子に、史郎は微笑みかけた。
「ロビーでジュースでも飲んで待ってて」
「……わかった」
葉子は少々不機嫌そうに頷くと、ちらりと雨野の方を見た。そして「じゃあ、また」と小声で言うと、つかつかと部屋を出ていった。
その背を見送ってドアを閉めると、史郎はニコニコと笑いながら、雨野の側へ歩み寄った。
「もー、お義父さんってば相変わらず不器用なんだから! で、話ってなんですか?」
「扉の鍵を閉めてくれないか」
史郎は一瞬きょとんとしたが、素直に病室の扉の鍵を閉めに行き、ベッドの側に戻ると、静かに丸椅子に腰掛けた。
史郎は話の続きを促すようにじっと雨野を見る。
一呼吸置いて、雨野は話を切り出した。
「史郎君、君はたいした博愛精神の持ち主だったな」
「ええ、まあ」
唐突な話を訝しがるでもなく、平然としている。そんな史郎の堂々たる態度を目の前に、雨野はふっと笑った。
「それなら哀れと思って、この老いぼれの頼みを聞いてくれないか?」
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