10 託すもの

3/5
前へ
/82ページ
次へ
 * * *  1987年6月  この日、雨野の病室は賑やかだった。  葉子たち一家が見舞いに来て、一緒にケーキを食べたり、他愛もない話をして過ごした。  昨年生まれた孫の篤郎(あつろう)はよく笑う子で、病室の陰気な空気を吹き飛ばしてくれた。今は疲れて、母親の腕の中でスヤスヤと眠っている。 「それじゃあお義父さん、また来ますね」 「なんか食べたい物でもあったら言ってよね」  史郎と、篤郎を抱いた葉子が丸椅子から立ち上がる。  雨野はその背に向かって絞り出すように声をかけた。 「……史郎君」  史郎が足を止め、振り返る。 「ちょっと話したい事がある」  病室のスライドドアを開きかけた葉子も、振り返って訝しげな表情を浮かべた。 「お父さん何? 話って」 「お前じゃなくて、史郎君に話だ」  何よ、と頬を膨らませる葉子に、史郎は微笑みかけた。 「ロビーでジュースでも飲んで待ってて」 「……わかった」  葉子は少々不機嫌そうに頷くと、ちらりと雨野の方を見た。そして「じゃあ、また」と小声で言うと、つかつかと部屋を出ていった。  その背を見送ってドアを閉めると、史郎はニコニコと笑いながら、雨野の側へ歩み寄った。 「もー、お義父さんってば相変わらず不器用なんだから! で、話ってなんですか?」 「扉の鍵を閉めてくれないか」  史郎は一瞬きょとんとしたが、素直に病室の扉の鍵を閉めに行き、ベッドの側に戻ると、静かに丸椅子に腰掛けた。  史郎は話の続きを促すようにじっと雨野を見る。  一呼吸置いて、雨野は話を切り出した。 「史郎君、君はたいした博愛精神の持ち主だったな」 「ええ、まあ」  唐突な話を訝しがるでもなく、平然としている。そんな史郎の堂々たる態度を目の前に、雨野はふっと笑った。 「それなら哀れと思って、この老いぼれの頼みを聞いてくれないか?」
/82ページ

最初のコメントを投稿しよう!

284人が本棚に入れています
本棚に追加